ガリアから始まったフランスの歴史
今のフランスと呼ばれている地域はもともとクロマニョン人という人たちが住んでいました。このクロマニョン人の生活のありかがわかるのがいわゆるフランスの世界遺産として名高いラスコー洞窟です。
しかし、クロマニョン人はやがてその活動をやめ、その直後にケルト人と呼ばれる民族が紀元前4世紀ごろに居住していくようになっていきました。そして、このケルト人が今のフランスの起源となっていくのです。
ちなみに、古代ローマの時代までは現在のフランスはガリアと呼ばれていました。
ギリシャ語でフランスのことをガリアというのはここからきています。
カエサルの華々しい戦績
いわゆるガリアの人々が初めて歴史の表舞台に立ったのは紀元前58年頃。
この年にローマの名将軍として知られているカエサルがローマの支配権を伸ばそうとガリアに侵攻をし始め、7年に渡ってケルト人と激しい攻防戦を繰り広げていました。
カエサルはケルト人と戦闘を繰り広げている一方でガリア戦記を執筆。このガリア戦記は、カエサルが自ら記した戦記であり、ガリアに住んでいる人々の生活や習慣をまとめた書物。ガリアを語る上ではこれがなければ話にならないと言われるほどガリアを知るには必要不可欠なものとなっています。
その後、ローマに支配されたガリアはローマの高度な文化を受けるようになっていき、ローマ的な都市も建てられるようになってローマ化が一気に進んでいきました。フランスの首都パリが建設されたのはこの頃です。
そして、ガリアでの戦争はカエサルをローマの支配者の一人に押し上げる決起となっていき、さらにはガリアの潤沢な財産はカエサルの莫大な財産へと変貌を遂げ、ローマの一つの歴史の転換点となっていったのでした。
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ゲルマン民族の大移動とフランク王国
ガリアの歴史の転換点となったのが375年の時期。この頃に入るとかつて地中海を制覇したローマ帝国の栄光はその影を落としていくようになり、特に属州として置かれたガリアではたゲルマン人が次々と侵入していくようになりました。これが、後に言われるゲルマン人の大移動です。
ゲルマン民族の大移動はローマ帝国の領土を次々と脅かしていくようになり、さらにはローマ帝国自体が東西に分裂したこともあり、これがローマ帝国崩壊の一つのきっかけとなっていくことになります。
そして476年についに西ローマ帝国が崩壊。旧西ローマ帝国の領土はゲルマン人による国家が次々と建国されていくようになりましたが、そんな中で一際勢力を伸ばしていたのがフランク族と呼ばれる民族でした。フランク族はかつての西ローマ帝国領の領民と平和的に同盟を結んでおり、西ローマ帝国が崩壊したあとはローマ系住民を吸収していき、次第に現在のドイツやフランスに勢力を伸ばしていくようになっていきます。
そして481年にクローヴィスがフランク民族を統一してメロヴィング朝フランク王国が成立。いわゆるフランスの原点がここに誕生したのでした。
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シャルルマーニュの栄光
初期の頃のフランスの歴史を語るにはやはり、「ヨーロッパの父」とも名高いシャルルマーニュ(カール大帝)を外すわけにはいきません。クローヴィスがフランク王国を統一したあと、フランク王国の王は次々とカトリックに改宗していき、国内の民衆にもカトリックを広めていくことになります。
そしてカトリックを受容したフランク王国は次々と勢力を拡大。クローヴィスの死後、フランク王国の領地は4人によって分割されることになりましたが、その一派であるカロリング家はその権力を強化していきます。カロリング家はイベリア半島から侵攻してきたイスラム勢力をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破。キリスト教の守護者としての名声を手に入れ、分裂していたフランク王国を統一します。
ここで現れたのがシャルルマーニュ。シャルルマーニュは東西教会の分裂という背景で西ローマ教会が新しい宗教の保護者を欲しがっていたことを受けてフランク王国が保護者になることに。800年にローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国の皇帝の座を譲り受けることになり、中世ヨーロッパの父としての名声を手に入れたのでした。
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フランク王国の分裂とカペー朝の成立
こうしてフランク王国はフランスとドイツと北イタリアに渡る広大な領土を手に入れましたが、シャルルマーニュの孫になると843年にヴェルダン条約が締結。これによってフランク王国が三分割されることになります。さらに870年のメルセン条約が締結したことで現在のフランス・ドイツ・イタリアの礎となる西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国が成立。このうち西フランク王国がいわゆるフランスの領土のもととなっていきます。
その後、西フランク王国ではパリを支配していた諸侯であるカペーによってカペー朝が成立。しかし、この当時の王国というものは諸侯の中で一番偉いだけで身分はあまり高くなく、カペー朝もパリ周辺を辛うじて抑えているだけであり、さらには10世期にはノルマン公によってフランス北部のノルマンディー地方が取られることになります。このノルマンディー公はのちにイングランドの王へとなっていき、これがのちの火種となっていくのです。
教皇との争い
カペー朝の成立の後、フランス王はその権威の拡大を目指すために様々策を講じていくようになります。そのおかげか13世紀に入ると徐々に王権の強化が進み、イングランドからノルマンディーやアンジューを獲得。
ローマ教皇の要請を受けて十字軍が決行。この十字軍遠征はフランスの財政に重い負担を与えることになりましたが、陣頭指揮をしたルイ9世の活躍もあって徐々に現在のフランスのあたりを強固な形で支配するにまで至ることになります。
さらには14世紀に入り、教皇からの楔から脱出するために教皇と敵対したフィリップ4世はフランスの初の身分制議会である三部会を結成しながら1303年にアナーニ事件を引き起こし、教皇を幽閉に追い込むに至りました。
このことによってかつて教皇の顎として使われていた国王の権威が教皇と並ぶほどのものとなり、フランスはこの頃から諸侯から支持を得てローマ教皇からの事実上の独立を成し遂げたのです。
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百年戦争
このカペー朝の繁栄は永く続くかと思われましたが、フィリップ4世の死後の跡継ぎ不在によって断絶刷ることになります。
その後のフランスでの王位継承はカペー家の一族が継ぐことになっており、この規定が19世紀まで続くことになりました。カペー本家の断絶後はヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位しました。
しかし、フィリップ4世の孫であるイングランド王のエドワード3世は、自分こそが正当なフランスの王位継承者だと主張します。いわゆる百年戦争の勃発です。
当初は、イングランドが優勢で、イングランド軍はパリを占領しフランス王のシャルル7世をオルレアンにまで追いつめました。しかし、ジャンヌ・ダルクの登場を契機として戦況は逆転。最終的にはドーヴァー海峡に近いカレーを除く大陸領土をフランスが制圧して終わります。
その後、フランスは100年にわたる戦争によって諸侯が次々と没落。またその諸侯や有能な人材を集めて官僚制が整備。近代国家の礎を築くことになったのでした。
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