ヨーロッパの歴史

特殊な地位を占めた「イエズス会」宗教オンチの日本人にもわかるよう解説

「イエズス会」と聞いてなにを思い浮かべますか?教科書で習った、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル。庶民派のローマ法王(教皇)フランシスコ。「耶蘇会」「ジェズイット」という呼び名……キリスト教・カトリック教会の一大修道会・イエズス会ですが、宗教オンチの日本人にはイマイチわからない部分が多いのでは?ホンネとタテマエの複雑なキリスト教世界でも特殊な地位を占めてきた、イエズス会について今回はご紹介しましょう。

混迷と激動の時代に、「救世主」としてイエズス会の誕生

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イエズス会の誕生は混乱と混沌の時代の真っただ中でした。16世紀、宗教改革盛んなりし頃、すなわちカトリック教会およびローマ法王(バチカンの推奨呼称は「教皇」)の権威が歴史的にダダ下がりだった時期です。インテリエリートの7人が混乱のなか創設した、ポッと出の新興修道会。いったいどんなものだったのでしょう?

カトリック?ローマ法王?そして「修道会」って?

最初にいくつか予備知識をおさえておきましょう。そもそもローマ・カトリック、ローマ法王、そして修道会とは何なのでしょう?

ローマ・カトリックは「西方教会」とも呼ばれる、キリスト教最大教派の1つです。宗教改革によってプロテスタントが生まれる以前はこのカトリックが西ヨーロッパを支配していました。ローマ法王(教皇)は、聖書にある「使徒座の継承者」、神の代理人として、キリスト教・カトリック世界の最強権力者です。

「修道会」とは、カトリック教会の中にある、神に仕える聖職者で構成される組織。神父や修道士、修道女は各修道会に所属しているのです。黙想生活重視から活動的なものまで、様々な修道会があります。純潔・服従・清貧の3つの誓いをたてて生涯独身、神の花嫁として死ぬまでキリストに仕える終身雇用。主に修道院にて修行を積みます。イエズス会はアクティブ系の男子修道会(活動修道会)として誕生し、現在に至っているのです。

イグナティウス・デ・ロヨラと7人の同志

時は16世紀、1534年。中世大学の最高峰教育機関・パリ大学(フランス)のクラスメートであった7人の同志が、パリ郊外モンマルトルの丘にあるサン・ドニ修道院に集いました。中心人物はイグナチオ(イグナティウス)・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど。7人は超難関のパリ大学で学んだインテリエリート。非常に優れた神学者であり、ヨーロッパのトップクラスの頭脳を持った人物でした。

7人は清貧と貞潔(生涯独身で神に仕えること)の誓いを立て、同時に「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という宣言をします。この「モンマルトルの誓い」の7人がイエズス会の創立者となりました。

カトリック弱体化の中であらわれた、まさしく救世主のような一団。学問に特化したこの7人が修道会の礎を築いたことは、イエズス会が後に教育機関として発展するベースともなりました。

ローマ法王の認可と本格的な活動開始

どんなに熱心な信者や団体でも、トップのローマ法王の認可がなければただの危ないカルト扱い。7人はローマ法王に謁見と修道会認可を求めてイタリアへ赴きます。

1517年にマルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を提示して宗教改革がスタートしてしてから33年が経った、1540年。ときのローマ法王パウルス3世は「イエズス会」を修道会として認可。晴れて正式な修道会としての活動を開始します。

16世紀末にはじまった宗教改革にともない、内政干渉や巨大な権威をウザいと感じていた各国がローマ法王に背を向けはじめました。多くの信者や君主がローマ・カトリックからぬけていきます。生々しい話ですが税金や献金、法王領もどんどん減る始末。内部刷新、すなわち対抗宗教改革が必要とされていた時期でした。

時代のニーズ!イエズス会、世界へ

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16世紀のヨーロッパの一大潮流といえば、そう、大航海時代です。香辛料や奴隷貿易などで経済的にウハウハな一方で、遺憾なことにそこの現地民はキリスト教徒ではない……イエズス会はここに目をつけました。つまり「信者市場の新規開拓」を決行したのです。教育者・霊的指導者としての熱烈な使命感で海の向こうに乗りだしていったイエズス会士たち。どんな世界が待っていたのでしょうか。

東アジアへの宣教――新しい知恵と文明の流入

イエズス会を語る上で外せない、海外宣教。16世紀末にはアフリカ、アメリカ大陸、東アジアとたいていの海外航路はヨーロッパ諸国によって開拓されていました。そんな中東アジアの大国・中国への宣教に巨大な功績を残したのは、イエズス会士のマテオ・リッチです。

当時の中国を治めていたのは、清王朝。中国が中心でありその周囲に南蛮北狄などの蛮族世界が存在、それを中国が支配するという伝統的な世界観「中華思想」が信奉されていました。しかしマテオ・リッチは皇帝に謁見し、なんと世界地図を贈ります。中国が中心じゃない、端っこの一部だ!ということは当時中国の人びとに驚愕を与えました。

その他にも西洋文明が生み出した知恵や技術を惜しみなく伝え、一知識人としても非常に尊重されたマテオ・リッチ。その没後、彼の築いた礎の上にイエズス会士は活発に活動。イエズス会士カスティリオーネらが、時の皇帝の招きに応じて、新しい離宮・円明園(アロー戦争時に焼亡)のデザインに関わったりということもありました。

「イエズス会伝道所」ラテン・アメリカ熱烈宣教の夢のあと

コロンブスによるアメリカ大陸「発見」は1492年のこと。その後宗主国をスペインおよびポルトガルとしたラテン・アメリカ(中南米)諸国は、カトリック教国として発展したのです。

現地民のインディオのキリスト教化に、イエズス会の修道士たちは非常な熱意をもって取り組みました。その歴史的痕跡が「イエズス会伝道所」です。現地民のキリスト教化教育を主な目的として、一時期は10万人の人口をもつ信者共同体の村落を作っていました。ブラジルおよびスペイン領諸国から危険思想団体として放逐されるまで、16世紀から18世紀まで機能していたこの伝道所跡は、現在はユネスコ世界遺産として登録されています。 

ちなみに南米初のローマ法王フランシスコ(2013年即位、アルゼンチン出身)は、史上初のイエズス会士のローマ法王なんですよ。

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