ヨーロッパの歴史

かつてのバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と言われた理由をわかりやすく解説

現在の東ヨーロッパは、東西冷戦が終わって以来、EUに加盟する国も増え、比較的静かで自然のどかなイメージがあります。しかし、東ヨーロッパのバルカン半島は、かつてはヨーロッパの火薬庫と言われていたのです。実際にセルビアでオーストリアの皇太子が殺害されたことから第一次世界大戦も起こりました。 このヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島について解説します。

かつてはヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島

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かつて、東ヨーロッパのバルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われた時代がありました。20世紀初期のことで、いろいろな事件も生じています

もともとバルカン半島は、地中海のアドリア海と黒海に挟まれた地域で、現在では風光明媚で、のどかな東ヨーロッパのイメージが強い地域です。ロシア正教などの大聖堂やイスラム教の尖塔などもよく見かけますし、ブルガリアヨーグルトもおなじみですね。第二次世界大戦後には、ソビエト連邦の実質的な支配を受け、社会主義国家となっていましたが、冷戦が終わってからは、それぞれソ連の支配から脱しています。ユーロに参加している国もたくさんあるのです。一時は、旧ユーゴスラヴィアが分裂して、ボスニアヘルツェゴビナなどでは民族戦争も生じましたが、現在では落ち着いています。

しかし、かつてこのバルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われ、多くの紛争が生じていたのです。

バルカン半島はヨーロッパの歴史のふるさとだったが

バルカン半島は、ギリシャやマケドニアのアレクサンドロス大王に代表されるように、ヨーロッパ文明の発祥の地として有名です。ギリシャなどには多くの遺跡が残されています。ギリシャ神話には、全能の神ゼウスを困らせたテュポーンという最強の敵がいましたが、それに劣らぬほどに、世界を震撼させていたのが、20世紀初頭のバルカン半島でした

中央アジア遊牧民族の侵略の防波堤になってきたバルカン半島

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バルカン半島は、過去には中央アジアの遊牧民族が寒冷化などによってヨーロッパに移動して、侵略の戦いをした際にはその防波堤になっていた地域でした。地理上でもアジアとヨーロッパの境界にあったのです。それでも、ローマ帝国時代末期に生じたフン族の侵略は、バルカン半島を最初に侵略し、ついにはゲルマン大移動という歴史的な事件に発展します。

フン族は昔、kyoudoと同族ともに言われ、極東でも侵略をおこなっていたのです。

また、同じくチュルクと呼ばれた中央アジアのトルコ民族の侵略や、ハンガリーにまで進出したマジャール人などによってバルカン半島は、常に侵略の対象となってきました。このようにバルカン半島は地政学的に国際間の力関係に常に左右されて来たのです。

バルカン諸国は19世紀にはオスマン帝国(現トルコ)に植民地として支配されていた

そして、16世紀以降トルコ高原から中東地域を支配したオスマン帝国は、ヨーロッパにも進出し、バルカン半島を植民地や属領として支配したのです。オスマン帝国は、16世紀から17世紀にかけてオーストリアの花の都ウィーンを2度にわたって包囲したこともありました。

オーストリアは、有名なパブスブルグ家が皇帝として君臨する国であり、かつてはバルカン半島のハンガリーまでも支配していたのです。しかし、オスマン帝国は、16世紀から17世紀にかけてオーストリアの花の都ウィーンを2度にわたって包囲するほど力がありました。オーストリアは、かつての中世では神聖ローマ帝国の皇帝としてヨーロッパ全体に号令をかけていましたが、それでもオスマン帝国の攻勢を防ぐことができなかったのです。

このように、中東からヨーロッパにかけて帝国を築いたオスマン帝国でしたが、19世紀に入ると、ヨーロッパが産業革命によって技術を発達させ、富を集中させました。その結果、さすがに帝国の力は衰退に向かったのです。

オスマン帝国の衰退に喜んだロシア帝国_クリミア戦争

オスマン帝国が衰退を見せた時に、一番喜んだのはロシア帝国でした。ロシアは、もともと寒冷な地域にあり、温かい地域に進出したいと南下政策をとっていました。そのため、オスマン帝国の力が衰えると、すぐに黒海沿岸のクリミア半島に進出を開始します。ロシアは、オスマン帝国と数次にわたるクリミア戦争を起こし、バルカン半島などでも領土争いが頻繁に起こるようになったのです。

オスマン帝国の衰退がヨーロッパの火薬庫につながった

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オスマン帝国の衰退は、ロシアを喜ばせるとともに、バルカン半島の諸国に対してもその支配力の低下によって大きな影響を与えるようになりました。すなわち、バルカン諸国では独立機運が高まっていったのです。もともと、バルカン半島にはスラブ系の様々な民族が暮らしており、それらの民族はそれぞれに独立を主張し始めました。ただし、主義主張も違う中で、統一した動きではなかったのです。

オスマン帝国の衰退によってバルカン諸国の独立機運が高まった

オスマン帝国の衰退に伴ってバルカン諸国の独立機運は高まりますが、オスマン帝国はそれを認めませんでした。しかし、ロシアや国境を接するオーストリア、それにドイツなどはそのバルカン諸国の独立運動に対して支援をしたりして介入をおこなうようになったのです。特に、ロシアは事あるごとに介入を繰り返し、言語的にも近いスラブ民族の独立を主張して、オスマン帝国との対立を深めるとともに、バルカン諸国間の対立をもあおりました。

それに対して、バルカン諸国と国境を接するオーストリアやドイツは、ロシアがバルカン半島に進出したり、影響力を強めることを問題視し、警戒します。バルカン諸国に支援をおこなったのです。バルカン諸国内では、ロシア派とオーストリア・ドイツ派に分かれ、さらにそこにイギリス、フランスなども介入をおこなうようになりました。

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