日中戦争の発展の原因
日中戦争は何も突然始まったことでありません。長年の日中関係がこじれにこじれて起こったのが日中戦争という泥沼の戦争でした。
まずはどうして日中戦争という泥沼に日本は入っていくのかについて見ていきましょう。
日本の中国への進出
日本は日清戦争以降中国に対して勢力を拡大していくようになりました。
その一環として中国にて大清帝国が1912年に崩壊し、さらには第一次世界大戦に入ると日本は中国を支配していた袁世凱大総統に対して21か条の要求をつきつけます。
日本はこの21か条の要求でドイツが持っていた山東省の権益を日本が引き継ぐこと、中国政府に日本人を雇用することなどを盛り込んだこの要求を提示。
本来であれば突っぱねなければならないことなんですが、この頃には日本と中国の国力は比べられられないものとなっており、戦っても勝てないと分かっていました。
中国は政府に日本人顧問を入れる以外の要求を呑むこととして合意することになったのです。
国際世界も日本の行動を黙認するようになり、第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約において国際的に承認。
中国国民はもちろんこんなことを望んでいませんでしたので、日本に対する反対デモを展開していくようになり、1919年5月4日には五・四運動で北京の学生数千人が条約撤回・日本との交渉に当たった役人の処罰などを求めてデモ行進を行います。
最終的には鎮圧されましたが、このころから日本に対する反日感情が生まれていました。
こちらの記事もおすすめ
東アジアの歴史を大きく変えた「日清戦争」ー背景・経緯・その後などわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
張作霖爆殺事件
こうして中国は日本に対抗していこうと画策していくようになりましたが、中国を取り巻く環境は非常に悪いものでした。
まず、袁世凱が亡くなると中国では軍閥という軍人が地方を支配するという状態に突入。
そして日中の衝突が起こる満洲には奉天軍閥の張作霖が実質的に支配していました。日本は満州の鉄道管理権を獲得しており、満州の支配者とは仲良くしたい。日本は張作霖に対して援助を行なっていくのですが、1925年に孫文が死ぬと後を継いだ蒋介石が軍閥を打倒するために北伐を敢行していくようになります。
蒋介石が率いていた国民革命軍の勢いは止まらず張作霖が支配していた満州にまでその影響力を伸ばそうとしていました。
でも、張作霖はこの頃から日本に対して反感的な感情を抱くようになっており、日本の満洲の支配が揺るぐ可能性まで出てくるように。
そうなる前に張作霖を爆作するべきと当時日本の租借地であった関東州の軍人である河本大作は考え、張作霖の本拠地である満洲の奉天に戻ろうとしていた矢先に張作霖を列車ごと爆破してしまいました。
いわゆる某満州重大事件(張作霖爆殺事件)はこの事件の真相を日本が敗戦するまで伝えることはなく、隠し通されていましたが、昭和天皇はこれに不満を抱き田中義一は辞職。
さらにはこの爆殺事件がきっかけとなり、張作霖の息子であった張学良は日本に対して敵意を抱くようになり、蒋介石に臣従。満洲は中国の領土となり北伐が完成するきっかけともなったのでした。
こちらの記事もおすすめ
中国を統一した「蒋介石」中国統一から台湾に逃れるまでのいきさつを元予備校講師がわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
満州事変の勃発
こうして満州は日本が思っていたのとは真逆の展開となってしまいました。
そこで関東軍では一発逆転を狙って満州に傀儡国家を立てようと画策していくようになるのです。1931年9月18日。関東軍が管理を行なっていた南満州鉄道が奉天郊外の柳条湖付近で突如として爆破。
この爆破事件を関東軍は日本に敵対しているであろう張学良軍の犯行であると決めつけ、関東軍は一気に満州全土に侵攻を開始。1932年には満州の重要拠点であるハルビンを占領して最終的には満州全土を支配することになります。
また、占領した満州にはさらにこの後の日本軍は清の最後の皇帝である溥儀を皇帝として満州国を建国。
実質的には満州国は日本の傀儡であったため関東軍は目的を果たしたと言えます。
しかし、本来の柳条湖事件の実態は張学良の軍による犯行ではなく実は関東軍が行っていたもの。中国からしてみれば濡れ衣のほかありません。
日本のこの横暴についに我慢の限界に達した中国はついに国際連盟へ不満を訴えることに。
問題は国際連盟に渡されることになったのでした。
こちらの記事もおすすめ
「関東軍」とは?日本を敗戦に追い込んだ軍事組織をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~