フランスヨーロッパの歴史

「ジャンヌ・ダルク」は本当に実在した?題材とともに逸話も紹介

いろんな映画や小説、ゲームやアニメのキャラクターとして登場するジャンヌ・ダルク。本当に実在していたの?という疑問をお持ちの方へ。今の日本は、未だにニュースでセクハラ問題や女性を軽視するような発言が取り上げられますが、ジャンヌ・ダルクはどうやって百年戦争時代の過酷な社会を生き抜いたのでしょうか?題材となった小説や映画もご紹介します。

百年戦争時代を生きた奇跡の少女「ジャンヌ・ダルク」

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ジャンヌ・ダルクが生まれたのは1412年であったとされています。生誕の場所は、フランスの東部に位置するドンレミ村です。家族構成は、父親の名前はジャック。母親の名前はイザベル・ロメ。ジャックマン、ジャン、ピエールの三人の兄と、一人の姉(あるいは妹)カトリーヌがいました。

なぜ、600年以上も前のことなのに、そこまでわかるの?と思われたかもしれません。そんな疑問を解決するため、まずは実際の裁判記録をご紹介します。

ジャンヌ・ダルクは実在したと証明される裁判記録

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ジャンヌ・ダルクが実在したと証明するのに十分な証拠として裁判記録が残っています。

また、父は自作農民であり、ジャンヌは家では糸を紡ぎ、布を織り、家事を手伝っていました。時には羊の世話をしたり、兄らと一緒に畑仕事を手伝っていたとされています。一地方の田舎で暮らす、普通の農民の娘でした。

この事実は部分的に裁判記録に起因するもので、部分的には、裁判が調査され、その判決が覆された戦後の後の控訴の記録にも起因します。

1431年の裁判では、書記を務めた公証人ギヨーム・マンションが率いる公証人の3人がフランス語でノートをとり、裁判後に毎日照合しました。約4年後、これらの記録は、マンションとパリ大学の博士トマ・ド・クールセルによってラテン語に翻訳され、正式な記録とされています。

なんと、5つのコピーが作成され、そのうち3つは現在も存在しているそうです。

ジャンヌ・ダルクを送り出した「ヴォークルール」という街

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ジャンヌ・ダルクが実在したことが証明されていたので、ここからはジャンヌ・ダルクがいかにしてフランスの英雄となったのかをご紹介していきます。

ジャンヌ・ダルクが初めて「神の声」を聞いたのは、13歳の頃でした。最初はこの得体の知れない「声」に怯えたといいます。しかしその「声」は何度もジャンヌに語りかけ、「フランスへ行け」、「フランスを救え」、「オルレアンを開放せよ」、「王太子をランスへ導き戴冠式を行え」、その「声」はときに抽象的に、時に具体的に語りかけてきたそうです。

ジャンヌが16歳の頃、「声」はヴォークルールへ行くこと、そして守備隊長のロベール・ド・ヴォードリクールという人物に会うことを促していました。

このヴォークルールこそ、ジャンヌの故郷ドンレミに隣接するフランス王国の主要都市の一つでした。

1428年5月13日に、ジャンヌはヴォークルールを訪れ、守備隊長のロベール・ド・ヴォードリクールに会うことができました。しかし、守備隊長からするとジャンヌは「神の声に従ってここまで来たと主張する得体の知れない少女」ですよね。

平手打ちをくらい、家に帰れと言われたジャンヌは引き返すことを余儀なくされたそうです。しかし戦況は悪くなる一方で、初回の訪問から半年たった1429年1月に、再度ヴォードリクールのもとを訪れます。

ジャンヌの根気に押されたのか、ヴォードリクールは王太子のもとに送り出すことを決めました。

ジャンヌ・ダルクと王太子シャルルとの出会いの場

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ヴォードリクールとの交渉が続く間、住民たちは、ジャンヌの言葉を聞き、信仰心に触れることで、彼女を神の使者と信じるようになっていました。

王太子のブルゴーニュ公の支配領域を通り抜けなければならず、長く危険な旅になるため、住民はジャンヌに男性の衣装を準備しました。ヴォードリクールは「行け、行け、なるようになるがいい」と王太子のもとへ送り出してくれました。

10日後、ジャンヌ一行は王太子が滞在するシノンに到着しました。

しかし、「神の声」を聞いたという田舎娘に、王太子シャルルは会うべきなのか。宮廷ではそんな議論がなされていました。ジャンヌの素性がわからない側としては当然の議論だったと思います。

その中で、ジャンヌの味方となったのは、王太子シャルルの義理の母であるヨランド・ダラゴンでした。ジャンヌの言葉を信じたのか、政治的な意図があったのかはわかりませんが、なにより義理の息子であるシャルル王太子の権威を回復させるため、ランスでの戴冠式は考えていたそうです。

その考えが一致したのかもしれませんね。こうしてヨランドの後押しもあり、シャルル王太子はジャンヌに会うことにしました。

ジャンヌ・ダルクに試された奇跡の逸話

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こうしてシャルル王太子に会うことができるかと思いましたが、王たちは、一つジャンヌ・ダルクを試す策が講じられました。

王宮に呼ばれたジャンヌですが、王は身代わりをたて、広間に集まる群衆に紛れます。ジャンヌは王太子に会うのは初めてなので、当然顔はわかりません。しかし、ジャンヌは身代わりの王にこう言います。

「あなたは、いい王だけれども、王太子様ではございません」

そして群衆の中から王太子を見つけ出し、彼に「気高き王太子様」と呼びかけました。王は「あそこに座っている方こそ王様だよ」といいますが、ジャンヌは「神に誓って、気高き王太子様、王様はあなた以外のどなたでもありません」と答えます。

このジャンヌ・ダルクの奇跡とも言える所業は、王太子含め、民衆が信じるのに十分でした。

実はこの出来事の後、王太子とジャンヌは二人だけで話をしたと言われています。そこで、ジャンヌは王太子が彼女を神の使者であると信じ込ませる決定的な言葉を述べたそうですが、実際にどんな内容だったのかまではわかりませんでした。

しかし、後世の史料や状況証拠などから様々な類推がなされています。例えば、「王太子がひっそりと一人で述べた祈祷文を、そっくりそのままジャンヌが王に述べた」といったちょっと恥ずかしいエピソードから、「実は王太子シャルルの母イザボーには、オルレアン公ルイという浮気相手がおり、王太子はシャルル六世の実の子ではない」という王太子の悩みを解決するようなことを述べたと言われているみたいです。

オルレアンへ向かうジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクという少女が、王太子シャルルのもとに姿を表し、王太子に対して、自分はオルレアンの包囲を解かせるために神から送られてきたと言ったことは、すでにオルレアン市内に広がっていました。

そして、いよいよジャンヌは、1429年4月29日、オルレアンへ入城します。民衆は噂の少女「ジャンヌ・ダルク」が本当に現れたことにより、歓喜に沸きました。一度オルレアンから撤退していた武将たちに絶望していた市民でしたが、4月に入り次々と大量の兵士を引き連れて戻ってくる中で、最後に登場したのがジャンヌ・ダルクだったのです。

こうしてオルレアンは息を吹き返し、安息日の日曜日にオルレアンの解放が成し遂げられました。

ジャンヌ・ダルクの行動力は凄まじいものがありますが、絶妙なタイミングを逃さない神がかり的な運も味方していたのかもしれません。

ジャンヌ・ダルクがフランス人に与えた影響

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この後の戦いで、ジャンヌ・ダルクは異端審問の後、火刑に処されてしまいますが、ジャンヌ・ダルクの存在はフランスの人々にどのような影響を与えたのでしょうか?

「神の声」を聞いたジャンヌ・ダルクが危機にさらされるオルレアンを救ったことは、当時フランスだけでなく、ドイツやイタリアでも強烈な印象を人々に与えていました。

しかし、長い年月が経つ中で人々の記憶は薄らいでいきます。そんな英雄を再び記憶の中に呼び起こしたのは、かの有名なナポレオン・ボナパルトでした。ナポレオン率いるフランス軍がヨーロッパを席巻し、イギリスとの戦争が間近に迫ったとき、彼は、かつてフランスを救った英雄であるジャンヌ・ダルクと自分を重ねます。「自分はジャンヌ・ダルクと同じようにフランスの救世主である」と。

19世紀のフランスは、フランス人団結の拠り所、フランス国民意識を喚起する象徴的な存在となっていきました。

こうして19世紀は「ジャンヌ・ダルクの世紀」となります。

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