フランスヨーロッパの歴史

ヨーロッパの大国「フランス」の歴史とは?紀元前からわかりやすく解説

フランス第一帝政

フランス国民の圧倒的な支持を得たナポレオン・ポナパルトは1804年にナポレオン1世として皇帝に即位。こうしてフランス第一共和政は崩壊し、ナポレオンによる第一帝政に突入することになりました。

ナポレオンは国内における産業の育成を行っていき、フランスを近代国家にする地盤を固めていき、対外ではアウステルリッツの戦いやイエナ・アウエルシュタットの戦いで大活躍。

アウステルリッツの戦いでロシアとオーストリアを屈服させ、イエナ・アウエルシュタットの戦いではプロイセンを屈服させることに成功しました。

これによって神聖ローマ帝国は崩壊し、ドイツではライン同盟と呼ばれるフランス属国が誕生。ほとんどのヨーロッパの国々がナポレオンに屈服することになりました。

しかし、トラファルガーの海戦でイギリス海軍に敗北したことにより、徐々にナポレオンの勢いは陰りを見せることになります。スペインに介入した時にはスペイン民衆の抵抗にあって失敗。さらにはロシア遠征では60万の大軍勢でモスクワに入場しましたが、ロシアの厳しい冬やロシア軍による焦土作戦によってフランスは大敗北。最終的には1万以下に落ち込むなどフランスの軍は手痛い損失を受けることになります。

これによって国内の人気は失墜。そして『諸国民の戦い』と呼ばれることになるライプチヒの戦いに敗北したことによってナポレオンは退位。エルバ島に流刑されることになりフランス第一帝政は崩壊することになりました。

しかし、復活を望むナポレオンはエルバ島を脱出して再びフランス皇帝に即位。しかし、その直後にワーテルローの戦いに敗北したことによってナポレオンはセントヘレナ島に流されることになりナポレオンの時代がついに終わることになりました。

その後のフランスにはルイ16世の弟であるルイ18世が即位。フランスは王政復古することになるのです。

復活した王政

ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位。ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる新しいヨーロッパの秩序が誕生してフランスは新しい道を歩んでいくことになるのですが、この復古王政は残念なことにある程度の民衆の政治参加は認められたものの、一部の大貴族やお金持ちにしか選挙権がないなどフランスの国民が望んでいた政治とはかなりかけ離れているものでした。

その結果フランスの国民たちは度々フランスの王政に対して抗議のデモを起こすようになり、ルイ18世の弟であるシャルル10世の時には七月革命が巻き起こるなど国内の政治は不安定なものになってしまいました。

その後、フランスにはオルレアン家からルイ・フィリップがフランス国王として即位。

絶対王政ではなく立憲君主制となりフランスの国民はある程度の自由を確保したかに見えましたが、その中身はルイ18世の頃と変わらず。貴族と一部のお金持ちにしか選挙権はないという状態でした。

これに激怒したフランスの労働者などは政府を変えるために二月革命を巻き起こしルイ・フィリップを退位に追い込みます。

この二月革命によってフランスはユーグ・カペーか900年以上続いてきたフランスの王政は幕を閉じ、ヨーロッパでは1848年革命と称される一代民権運動へと発展することに。ここからフランスとヨーロッパの歴史は激動の時代を歩んでいくことになるのです。

フランス第二帝政

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こうして二月革命は成立。フランス第二共和政に突入することになりましたが、この政治体制は政策の反発から労働者と政府の間で大きな溝が生まれてしまい、パリの労働者が反発し、六月蜂起を起こしてしまいます。

この結果フランスでは労働者の運動を激しく弾圧。共和政の動きは大きく停滞することになったのでした。

これを受けて密かにフランスのトップに返り咲こうとしていた人が1人。その人こそナポレオン1世の甥であったナポレオン3世だったのです。

ナポレオン3世は叔父と同じく国民投票にて皇帝に即位。これにより第二帝政に突入することになりました。

ナポレオン3世はナポレオン1世と同じようにクリミア戦争などといった戦争に次々と介入。勝利して栄光を築き上げる手法をとっていました。さらには、ナポレオン3世はフランス国内における産業育成を積極的に行っていき、パリを含めた都市開発も次々と断行していくようになります。

ちなみに、今のフランスの原型はナポレオン3世の時代に作られたものです。

このように戦争と内政によって築かれたナポレオン3世の絶対的支持。しかし彼の権力は成功を維持し続けなければ維持することはできないという諸刃の剣でもあったのです。

ナポレオン3世の栄光はメキシコへの影響力の拡大に失敗したことによって影を落とすようになります。

ナポレオン3世の権威はひどく傷つき一時は弾圧していた議会政治もある程度認めなければ国内の政治を抑えることができないという事態に。さらにナポレオン3世の時代を終わらせるフランスの悲劇が起こります。普仏戦争です。

普墺戦争以降北ドイツを統一したプロイセン王国。その宰相であったビスマルクは南ドイツにもその勢力を伸ばそうと画策していました。

ビスマルクは同じく南ドイツに勢力を伸ばそうとしているフランスに対してエムス電報事件で挑発。

世論を無視できない議会政治を行っていたフランスの体制では戦争支持に傾きつつある世論を無視できない状態となり、ついに1870年に普仏戦争が起こることになります。

戦争の結果は近代化を推し進めた軍備を持っていたプロイセンの圧倒的勝利。ナポレオン3世はドイツ軍の捕虜となり、第二帝政は崩壊することになったのです。

復讐に燃えるフランス

ナポレオン3世の失脚によってフランスでは混乱がありつつも第三共和政が発足。

しかし、普仏戦争の敗北によるフランスの損害は計り知れないものとなっていました。フランスは普仏戦争の敗北によってアルザス=ロレーヌをドイツへと割譲。さらには50億フランという高額な賠償金を支払うことになってしまったのです。

これによってフランス国内では「ドイツ憎し」の世論が巻き起こることとなり、ドイツを敵国として見ていくようになります。ドイツはこの状態を見越してかフランスを孤立させる外交をとっていましたが、ビスマルクがドイツ宰相を辞職すると待ってましたとばかりにロシア・イギリスと協商関係を築くことに。これが第一次世界大戦の協商国の原型となります。

また、第二帝政の時代に獲得した植民地の拡大と整備を行っていくようになり、フランスの工業化は順調に行われていくようになりました。

フランスはイギリスみたいに急激に成長はしませんでしたが、着実に一歩ずつ成長していたのです。

第一次世界大戦のフランス

ドイツに復讐の機会を窺っていたフランス。そんなフランスに復讐のチャンスが訪れることになります。1914年にサラエボ事件が起こりいわゆる第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツに宣戦布告。ドイツ軍は普仏戦争と同じく短期決戦で決着をつけるためにシュリーフェン・プランを画策しベルギーに侵攻。しかしこの計画をフランス軍が食い止めると両国は長い塹壕戦に突入することになります。

しかし、着実にドイツ軍はフランス領土に侵攻しており、戦場となった北フランスは大きく荒廃。パリにもドイツ軍の飛行船によって空爆を受ける被害を被ってしまいます。さらに1916年のヴェルダンの戦いでフランス軍はドイツ軍に勝利することになるのですが、おびただしいほどの犠牲者を出してしまいフランスは壊滅的な被害を負うことになりました。

いつ終わるのかもわからないこの第一次世界大戦はアメリカの参戦とドイツ革命によってフランスの勝利に終わるのですが、この第一次世界大戦でフランスは甚大な被害を出すことになります。

ヴェルサイユ条約下のフランス

第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議ではフランスは普仏戦争の復讐と被害の穴埋めのためにドイツに対して苛烈な講和条件を突きつけることになります。パリ講和会議の後に締結されたヴェルサイユ条約ではドイツは全ての植民地を失いさらには領土の25%を喪失。また1350億マルクという莫大な賠償金を課せられてしまうことになりました。

一方でフランスは莫大な賠償金を手に入れさらには悲願であるアルザス=ロレーヌをドイツから奪還。また旧ドイツ植民地、旧オスマン帝国領のシリアを獲得しました。

しかし、おびただしいほどの戦死者と戦費を使ったフランスはこの条件ですらどうしようもないほどの被害を出していました。

フランスは賠償金が支払われていないという理由で1923年にルール地帯を占領。ヨーロッパ一の工業地帯を手に入れて復興を試みるのですが、これはドイツの反感を買いさらにはアメリカもこれに対して乗り出したため失敗。

賠償金の支払いはアメリカが介入したことでなんとか決着する形となりました。

こうしてある程度の安定を手に入れたフランスでしたが、1929年にアメリカの株価が大暴落したことによって世界恐慌が起こることに。その結果復活しかけていたフランスの経済は大混乱に陥ることになります。

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