ヨーロッパの歴史

「ゲルマン民族の大移動」とは?理由は何?わかりやすく解説

ゲルマン民族の大移動については、言葉としては知っている方は多いのですが、実際にいつどのような理由で起こったのかについては、ほとんど知られていません。ゲルマン民族大移動の結果、西ローマ帝国が滅びたり、ヨーロッパに中世が訪れたのです。この、ゲルマン民族の大移動についてご説明します。

ゲルマン民族の大移動とは何だったのか

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世界史の教科書などには、ゲルマン民族が西方(西ヨーロッパ)に大移動したことが掲載されています。4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動は、結果として、西ローマ帝国を滅亡に追いやったとされているのです。ただ、このゲルマン民族というのは、どのような民族で、なぜ大移動をしなくてはならなかったのかは確かなことはわかっていません。また、移動の結果、西ローマ帝国以外では何が起こったのかについては教科書などにも記載はないのです。ただの移住ではありませんでした。ゲルマン民族の大移動は研究も行われていますが、その詳細な内容についてはわからない面もあるのです。

ゲルマン民族とはどのような人々だったのか

ゲルマン民族は、もともとヨーロッパでも、北部のスカンジナビア半島の南部やそこからバルト海や北海の沿岸に住んでいたインド・ヨーロッパ語という言語を話す人々でした。インド・ヨーロッパ語というのは、英語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語などのことで、金髪で長身などの身体的特徴のある人々です。

彼らは、もともと牧畜や農耕で生計をたてていた民族(語族)でした。彼らは、北部ヨーロッパに住んでいたため、ローマ帝国の支配の外にいました。しかも、比較的寒い地方に住んでいたために、ローマ帝国もそれほど侵略の動きを強くは見せなかったのです。

ゲルマン民族は一つではなく、多くの民族の総称だった

ゲルマン民族というと一つの民族のように思われますが、実際には、その中には多くの民族が含まれていました。それぞれが、小さな民族単位に移動をしたために、結果的に西ヨーロッパには多くの国ができたのです。ヒトラーなどは、ドイツこそがゲルマン民族だと言っていました。しかし、実際には多くの民族が西ヨーロッパに向けて移動し、西ローマ帝国の領土に侵入したのです。

西ゴート族と東ゴート族の移動から始まった

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最初に移動を開始したと言われているのは、西ゴート族でした。現在のドイツ平原からポーランドにいた人たちです。最初に移動しただけに、彼らの移動距離は大きく、今のスペインのあるイベリア半島にまで達しています。また、次に動いた東ゴート族は、イタリア半島に移動しました。今のイタリア人の中にも彼らの血が混じっています。彼らは、非常に精強な民族で、当時の西ローマ帝国とも戦って、勝ったりもしていました。

また、4世紀に西ローマ帝国の記録に現れたフランク人(族)もゲルマン民族で、北西フランスに進出しています。その名のようにフランスの原型になったフランク王国が有名で、西ローマ帝国に入り込んで、傭兵として活躍し、自分たちの社会を形成していたのです。また、アングロ・サクソン人は現在のイギリスにも渡っています。最も移動距離が長かったのはヴァンダル人です。イベリア半島から海を渡って北アフリカにまで移住して、かつてローマ帝国によって滅ぼされたカルタゴ(現在のチュニジア)に国を作っていました。

ゲルマン民族は農耕民だった?

もともと、ゲルマン民族には、さまざまな民族が含まれており、農耕民族もいましたし、牧畜民族もいました。農耕民族といっても、彼らの農耕は、土地の再生をせず、別の場所に移動を繰り返していたようです。それ故に、土地に縛られず、牧畜民族同様に大移動も可能でした。

ゲルマン民族が移動しなければならなかった理由

ゲルマン民族の大移動の理由については、主に言われているのは、中央アジアにいたフン族が原因とされています。彼らが、西方に移動し、侵略をしたことによって、ゲルマン民族は西方に移動せざるを得なかったのです。しかし、なぜ、フン族が西方に移動しなければならなかったのかについては、さまざまな説があります。気候変動説が有力ですが、もともとフン族そのものがどのような民族であったかもよくわかっていないのです。

西ローマ帝国はなぜゲルマン民族の大移動によって滅んだと言われるのか

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ゲルマン民族の大移動の結果について、よく言われるのは西ローマ帝国の滅亡原因となったことです。ゲルマン民族は、もともと屈強な体格で、戦いにも強かったことが知られています。そのため、ゲルマン民族との戦いでは、ローマ帝国は不利な戦いになってしまったのです。

ただ、ゲルマン民族はいろいろな民族が含まれており、一体となって西ローマ帝国の領土に侵略した訳ではありません。中には、フランク人のように、西ローマ帝国の傭兵になって、侵入するゴート人と戦う人たちも多くいたのです。そのため、フランク人は、西ローマ帝国にとって大切な存在となり、もともとケルト人が住んでいた西ローマ帝国でも西部地域に進出して、国を打ち立てています。そのため、後にフランク王国のカール大帝は、西ローマ帝国が滅びた後のローマ教皇から800年に神聖ローマ帝国皇帝に推戴されたのです。このフランク王国は後に分裂し、この後フランス、ドイツ、イタリアとして発展していきました。

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