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フランスの大統領「シャルル・ドゴール」とは?フランスの英雄をわかりやすく解説

フランスの英雄といえばどんな人を思いつくでしょうか?一般的にはナポレオンがよく知られていますが、実はフランスにはもう1人近現代に英雄と呼べる人物がいたのです。 今回はそんな英雄となったシャルルドゴールについてみていきましょう。

ドゴールの前半生

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第二次世界大戦中のフランスレジスタンスを指揮し、  最終的には第五共和政の初代大統領となったシャルル・ドゴール。

まずはそんな彼の軍人としての前半生を見ていきましょう。

ドゴールの生い立ち

ドゴールは1890年、フランス共和国のリールにイエズス会系の学校の校長の息子として生まれました。

父は医学や文学の博士号を取得しており、さらに軍人としては騎兵隊として参戦するほどのエリート。しかし、その参戦した普仏戦争においてプロイセンに敗北しアルザスロレーヌ地方を手放してしまうなどフランスにとっては屈辱的な出来事も体験していたのです。

そんな父はドゴールに対して軍人としての知識を学ばせようと1909年にサンシール陸軍士官学校に入学。卒業したあとは少尉としてペタン将軍の配下に着いたのでした。

第一次世界大戦

ドゴールが陸軍士官学校に入学してから5年後の1914年。この年バルカン半島にてサラエボ事件が勃発。その流れて第一次世界大戦が開戦し、フランスにとったら待ちに待ったリベンジの機会が巡ってきたのです。ドゴールは第一次世界大戦の当時は大尉として部隊を指揮。

一回はドイツ軍の砲撃によって重傷を負い、生死の縁をさまよっていましたが、のちに回復しその後は捕虜収容所から脱走してはドイツ軍に逮捕されるの繰り返しをしています。

そして1918年に第一次世界大戦は終戦。結果はフランスの勝利に終わり、普仏戦争のリベンジを果たすことに成功したのでした。

ドゴール、ポーランドに赴任

第一次世界大戦の終結によってフランス国内は再び平和を取り戻しましたが、世界では戦争が続行している地域も多々ありました。

特に、第一次世界大戦中にロシアで起こった十月革命によってレーニン率いるボリシェビキがロシアを支配し、その流れて赤軍が隣国ポーランドに侵攻してきていたのでした。

フランスからしたらボリシェビキが掲げる共産主義は脅威そのもの。そのためポーランドには共産主義の防波堤になって貰う必要があったのです。

そこでポーランドに軍事顧問が派遣されることになったのですが、その時に派遣されたのがドゴールだったのです。

ドゴールはのちにポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争に大活躍。一時は首都であるワルシャワまで迫られましたが、最終的には赤軍を押し戻すことに成功し、この活躍からポーランド少佐の称号と勲章が与えられたのでした。

 

電撃戦の主張と迫り来る戦争

こうして武功を挙げたドゴールでしたが、平和なフランスには一つの問題がありました。戦後ドイツはフランスやイギリスによって国内総生産の全てを合わせても足りないレベルの賠償金を課せられ経済は破綻。

その後困窮にあえぐ国民に漬け込んだヒトラー率いるナチス党が徐々に勢力を伸ばしていったのです。

そして1929年に世界恐慌が起こり、世界全体が不景気に巻き込まれていくようになると1933年にはヒトラーは首相に就任。さらに全権委任法も可決させ完全な独裁体制を築き上げたのでした。

これを受けてフランスでは対ドイツの対策を再び練らなければならない状況となってしまいましたが、ドゴールの主張と上司であるペタン将軍の主張は全く異なるものだったのです。

ドゴールは第一次世界大戦中に塹壕線によって泥沼の前線になったことや、戦車や飛行機といった機械化された武器を駆使して一気に敵の都市を占領する電撃戦を行うべきだと主張していました。

しかし、ペタン将軍らフランス軍の上層部は第一次世界大戦の傷跡があまりに深すぎることが脅威となり、ドイツ国境にマジノ線と呼ばれる一大要塞を建築することによってドイツ軍の攻撃を防ごうとしたのです。

ドゴールの主張は画期的なものでしたが、所詮ドゴールは一軍人。フランス上層部の考え方を覆すことはできず、マジノ線を建築して防戦一強という形でまとまってしまったのでした。

そしてその決断はフランスの運命も決定づける決定ともなるのです。

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