ローマ帝国前半の政治形態である元首政
紀元前31年、オクタヴィアヌスは政敵アントニウスをアクティウムの海戦で下しローマの最高権力者となりました。ローマ元老院はオクタヴィアヌスにアウグストゥスの尊称を贈ります。アウグストゥスは重要属州の支配権や軍事力を独占するものの、元老院を尊重する政治を行いました。元老院や共和政の伝統を尊重しつつ、実質的には皇帝が独裁するという元首政の仕組みは3世紀前半まで続きます。
元首政を創始したアウグストゥス
紀元前27年、ローマ元老院は内戦の勝利者であるオクタヴィアヌスにアウグストゥスという尊称を贈りました。と同時に、アウグストゥスは、自分は市民の第一人者に過ぎないとしてプリンケプスを名乗ります。このことで、アウグストゥスは共和政の破壊者ではなく尊重者だと元老院や市民に訴えたかったのでしょう。
しかし、現実には軍の指揮権をもつアウグストゥスに栄えるものなど誰もいません。アウグストゥス形の上では「市民の第一人者(プリンケプス)」であっても、実質は最高権力者の皇帝として国政を動かしました。
アウグストゥスの始めた仕組みを元首政といいます。アウグストゥスは平和を維持し、属州からたくさんの穀物をローマに供給しました。こうして、アウグストゥスは「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」を実現します。
芸術的な栄光を求めたネロ
アウグストゥスから数えて5人目の皇帝がネロです。ネロはカエサルやアウグストゥスの血を引くユリウス=クラウディウス朝の最期の皇帝となります。
ネロの師はストア派の哲学者として知られるセネカでした。セネカはネロの母であるアグリッピーナに見込まれ、ネロの家庭教師となります。ネロが皇帝になると、セネカはネロの政治を補佐しました。しかし、セネカが第一線を退くとネロの政治は徐々に狂いだします。
64年にローマで大火が起きると、ローマ市民たちはネロが自分の考える都市計画を実行しやすくするため、あえて火を放ったのだなどと噂しました。これを知ったネロは噂を打ち消すため、火災は新興宗教であるキリスト教の信者によるものと決めつけ、キリスト教徒の弾圧をおこないます。
ネロは治世の末期、ローマを離れアテネなどで演劇や音楽に熱中。ローマ市民から皇帝としてふさわしくないとみなされました。元老院はネロの廃位を決定。これを聞いたネロは68年に自殺します。
帝国最大領土を築き上げたトラヤヌス
96年、元老院議員だったネルウァが元老院から皇帝に指名されました。ネルウァ以後、5人の皇帝を五賢帝と呼びます。五賢帝が統治した時代、ローマでは安定した帝位継承が行われ、元老院と協調した政治が行われました。
98年、ネルウァは上ゲルマニア属州総督だったトラヤヌスを養子にします。ネルウァの死後、トラヤヌスは皇帝に即位しました。
トラヤヌスは属州出身の有能な軍人です。皇帝に即位したトラヤヌスは、国内政治では旧勢力であるイタリア出身の元老院議員と新勢力である騎士階級や新たに元老院議員になった人々のバランスを取り、政治を安定化させることに成功しました。
トラヤヌス自身は得意な軍事で能力を発揮。現在のルーマニアにあたるダキアとの戦いや西のライバルであるパルティアに勝利するなどし、ローマ帝国の領土を過去最大まで広げます。
ローマ帝国全土をくまなく巡り、帝国内部の整備を進めたハドリアヌス
117年、パルティア遠征中だった皇帝トラヤヌスが病に倒れました。死の間際、トラヤヌスは自分の後任としてパルティア遠征軍の司令官に任命していたハドリアヌスを後継者として指名します。
皇帝に即位したハドリアヌスはローマ帝国全土をくまなく巡回し、帝国の現状把握に努めました。その結果、ハドリアヌスは、ローマ帝国の拡大は限界点に達していて、これ以上の拡大やトラヤヌス時代の領土を全て維持することが困難であると判断します。
ハドリアヌスはパルティアから奪ったメソポタミアとアルメニアを放棄し戦線を縮小しました。また、帝国西方にあたるブリテン島では長城を建設し防衛力の強化を図ります。ハドリアヌスは無理な拡大よりも、ローマ帝国内部の整備・拡充に力を尽くしました。
哲人皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス
ハドリアヌスが次の皇帝に指名したのは元老院議員のアントニヌス=ピウスでした。アントニヌス=ピウスの統治下にあった23年間、ローマ帝国には大きな事件はなく平穏に過ぎたといいます。
161年、アントニヌス=ピウスの養子となっていたマルクス=アウレリウス=アントニヌスが皇帝に即位しました。彼は「自省録」という著作を持つストア派の哲学者でもあったので、哲人皇帝とよばれます。
マルクス=アウレリウス=アントニヌスの治世は波乱に満ちたものでした。ゲルマン人に代表される帝国周辺の異民族は絶えず、帝国への侵攻を図り、皇帝自ら出撃することも珍しくありません。外からの侵入だけではなく、国内の属州反乱なども勃発しマルクス=アウレリウス=アントニヌスを苦しめました。
死の間際、マルクス=アウレリウス=アントニヌスは実子のコンモドゥスを後継者に指名します。
軍人皇帝時代と専制君主制
235年からおよそ50年間、ローマ帝国の皇帝は各地の軍団によって左右され、不安定化しました。軍人出身の皇帝が乱立したこの時代のことを軍人皇帝時代といいます。軍人皇帝時代の中で元老院議員など旧来の勢力は力を失い、軍人が力を持ちました。軍人皇帝時代を治めたディオクレティアヌスは専制君主制を創始し、帝国の支配を固めます。専制君主制はコンスタンティヌス、テオドシウスと引き継がれましたが395年にローマ帝国は東西に分裂しました。