フランスヨーロッパの歴史

ヨーロッパの大国「フランス」の歴史とは?紀元前からわかりやすく解説

フランス全盛期への道

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百年戦争に勝利したことによって大国としての地位を確立したフランス。フランスが次に狙ったのはまだこのとき分裂状態にあったイタリアでした。15世紀末にシャルル8世はイタリアへの勢力拡大を目指して出兵。

そしてこの当時イタリアに勢力を伸ばしてきたハプスブルク家と対立することになり、フランスとハプスブルク家は長年にわたる対立関係に陥ることになります。

また17世紀に入るとドイツにて宗教改革が勃発。ハプスブルク家が皇帝となっている神聖ローマ帝国やフランスでは新しくできたプロテスタントとの関係も考えなくてらならないようになります。

そんな中、当時ハプスブルク家と対立していたオスマン帝国のスレイマン1世がハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲。これをフランスは援助しましたが、結局勝敗はつかずにカトー・カンブレジ条約を締結。いったんフランスとオーストリアの抗争は終わることになります。

しかし、そんな中でも宗教戦争はフランス国内でも蔓延することになり、30年以上にわたる内戦となったユグノー戦争が勃発。当時のフランス王妃が15ユグノーを大虐殺するサン・バルテルミの虐殺のように、カトリックとプロテスタント両勢力の対立はどんどん極端な形で過激になっていくようになり、ついにはフランス国王であるアンリ3世がパリで暗殺されることになりヴァロワ朝は断絶しました。

国王が暗殺される大事態の後に国王に就任したアンリ4世はカトリックに回収してナントの勅令を発令。なんとかしてユグノー戦争を終わらせることに成功したのですが、この懐柔策が過激なカトリック教徒の怒りを買ってしまい1610年にアンリ4世は暗殺されることになりました。

しかし、宗教戦争を終わらせたことによってフランスは宗教に左右されない近代国家の道を歩むことになるのでした。

絶対王政の時代

アンリ4世の後にフランス国王に即位したルイ13世は宰相リシュリューの補佐のもとで王権を強化する絶対王政の政策を取るようになります。

例えば17世紀にドイツで起こった三十年戦争ではフランスはカトリックにも関わらずハプスブルク家と敵対しているからとしてプロテスタント側についたりと宗教で決めるのではなく、国際関係から見て戦争に参加するようになりました。

そして1643年にルイ13世が死去したことでまだ5歳だったルイ14世が即位。

ルイ14世がまだ子供だったこともあり初期の頃はマザランによって政治が進められていましたが、マザランが亡くなるとルイ14世の親政が始まることになりました。

ルイ14世は新大陸における勢力の拡大、戦争に果敢に介入するなど積極的な外交政策を行い、国内ではマニュファクチュアを通じて国内産業の育成を図り重商主義政策を推進。さらにはパリ郊外にてヴェルサイユ宮殿を建造して国内外にフランス・ブルボン家の権威を見せつけたのです。

しかし、すべての政策がうまくいったのかというとそうでもなく、例えば北米大陸ではイギリスとの戦争に敗北したことによってアメリカ大陸から全面的撤退。さらには戦争の介入による戦費の増大はフランス国民が支払うことになりこのことがフランスの重税のもととなっていくのでした。そしてこのことがフランスをとんでもない方向へと向かわせていくことになるのです。

フランス革命

フランスが戦争による戦費増大は農民が負担するということがわかりましたが、実は貴族や王族は税金を支払うことはありませんでした。

フランス国民の2%にも及ぶかどうかわからないフランスの特権階級は実質的に税金を免除しており、この人たちは毎日パーティーやらなんやら行い贅沢三昧。一方でそのほかの国民たちは自分の生活すらもままならない状態となってしまうなど国内の格差はどんどん増大していくのでした。この状況をアンシャンレジームというのですが、この状況に我慢ならなくなったフランス国民は1789年7月14日にバスティーユ牢獄襲撃事件を引き起こすことに。このバスティーユ牢獄事件によって国内のフランス国民は暴動を起こし、借金の証文を燃やすなど各地で体制に対する運動が巻き起こっていくことになるのです。これがいわゆるフランス革命でした。

フランス革命の運動は凄まじくパリの女性たちがパンを求めてヴェルサイユ宮殿に乱入し、そのままルイ16世は人権宣言を承認することに。

それ以降ルイ16世やその妻であるマリーアントワネットはヴェルサイユ宮殿ではなく、パリのテュイルリー宮殿に移り住むことになり、パリ市民からの監視を受けながら暮らすことになりました。

これによって実質的な絶対王政は崩壊することになりましたが、フランス革命によって自身の立場が危ないと感じたルイ16世とマリーアントワネットは闇夜に紛れてパリを脱出し、マリーアントワネットの祖国であるオーストリアに亡命。しかし、その途中にて国民に見つかり失敗に終わります。(ヴァレンヌ逃亡事件)

これによって立憲君主制を求めていた国民の支持はガタ落ち。この事件によって立憲君主制ではなく国民による政治である共和政を目指していくようになり、1791年に普通選挙と王政廃止を盛り込んだ1791年憲法が採択。フランス第一共和政が成立することになり、ルイ16世とマリーアントワネットは処刑されることになったのでした。

革命の混乱とナポレオンの台頭

こうして達成されたフランス革命。フランス第一共和政のもとでフランスは新しい歴史を歩んでいくことになると思いきや、時代はそれを許すことはありませんでした。ルイ16世とマリーアントワネットが処刑されたことやフランスにて共和政が成立したことはヨーロッパの大多数を占めていた絶対王政の国家に衝撃を与えることになり、フランスに対して干渉戦争を行なっていくことになります。

さらにはフランス国内でも共和政成立の後に勢力を持つことになったジャコバン派がクーデールを起こし貴族や教会、そしてジャコバン派に反抗している勢力の財産を没収。さらには革命裁判にかけて処刑するなど恐怖政治を行うことになりました。

しかし、あまりにも過激すぎる政策は国民の信頼を失うことになり、1794年にテルミドールのクーデターでジャコバン派は没落。指導者であったロベスピエールが失脚して処刑されることになります。

その後のフランスの政局はまさしく不安定そのもの。総裁政府が成立したものの、国内の安定すらままならない状態となってしまったことを受けて国民はフランス革命の理念と反していることを実感して失望することに。

しかし、そんな時に総裁政府を超える政治家であり、軍人でもあるフランスのスーパースターが現れるのです。その人物こそイタリア戦争やエジプト遠征などで活躍したナポレオン・ポナパルトだったのでした。

ナポレオンはブリューメルのクーデターによって総裁政府を打倒し権力を確立。執政政府を樹立して独裁を始めると1804年にナポレオンは皇帝に即位。いわゆる第一帝政の幕が開けることになったのでした。

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