ヨーロッパの歴史

西ローマ皇帝となったカール大帝(シャルルマーニュ)の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

ドイツ東部にある人口およそ24万人の都市アーヘン。この街の大聖堂には一人の英雄の遺体が大切に安置されています。英雄の名はカール大帝。フランス語ではシャルルマーニュとよばれました。マーニュは、グレートという意味ですね。カール大帝は、ゲルマン民族の侵入以来、分裂していた西ヨーロッパ諸国を統合した人物。彼の生涯は戦いに次ぐ戦いでした。今回は、カールが支配したフランク王国の歴史とカール大帝の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

カール大帝(シャルルマーニュ)が君臨したフランク王国とは

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昔、ローマ帝国の外に住んでいたゲルマン民族は、東からやってきたフン族に押されてローマ帝国の領土に侵入し、自分たちの国を建てました。フランク王国は、ゲルマン人の一派であるフランク人が建てた国です。最初は、クローヴィス率いるメリヴィング家がフランク王国の王家でしたが、カール・マルテルやピピン3世の活躍で、カロリング家がフランク王国の王家になります。

フランク王国の始まりとクローヴィス

西ローマ帝国が滅んだ後、現在のフランス北西部に国を建てたのがフランク族でした。フランク族のリーダー、メロヴィング家クローヴィスは初代のフランク王となります。

このころ、ゲルマン民族たちはキリスト教の一派であるアリウス派を信仰していました。フランク族は、まだ、キリスト教を信仰しておらず、昔ながらのゲルマン人の信仰を維持しています。

クローヴィスは、征服した土地のローマ人の宗教に注目。ローマ人たちは、同じキリスト教でもアタナシウス派の信者。非キリスト教徒やアリウス派に支配されるのは、面白くないという気持ちはあったでしょう。

496年、クローヴィスはローマ人と同じアタナシウス派に改宗します。これを喜んだのがローマ教会でした。東ローマ帝国と対立していたローマ教会は、クローヴィスのような強いリーダーがアタナシウス派になったことで、後ろ盾ができたと考えます。

イスラム軍を撃破したカールの祖父カール・マルテル

クローヴィスの死後、メロヴィング朝は王位をめぐって激しい内輪もめを起こしました。争いが続く中、フランク王国内で力を増したのがナンバー2にあたる宮宰です。

8世紀前半、フランク王国の宮宰として活躍したのがカール・マルテルという人物。732年、カール・マルテルに試練が襲いかかります。イベリア半島を征服したイスラム教徒が、フランク王国にも攻め込んできたのです。

本来、イスラム軍を迎え撃つのはメロヴィング家の王の仕事のはず。しかし、王はイスラム軍の侵入になすすべを知りませんでした。宮宰カール・マルテルは王にかわってフランク王国の軍を率い、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍に勝利します。勝利の立役者となったカール・マルテルはキリスト教世界を救った英雄となりました。

メロヴィング朝からフランク王国の支配権を奪い、カロリング朝をつくったカールの父、ピピン3世

ピピンは、イスラム軍に勝利したカール・マルテルの子で、カール大帝の父です。ピピンの時代になると、フランク王国の人々は、国を治める力がないメロヴィング家の王様を見限るようになりました。

この空気を察しピピンは、ローマ教皇に使者を送ります。ピピンは「実力があるものが王になることについてどう思うか」とローマ教皇に問いました。ローマ教皇ザカリアスは、「実力があるものが王になるのは当然だ」と回答します。

ローマ教皇の「承認」を取り付けたピピンはメロヴィング朝の王を追放し、自ら王になりました。ピピンはフランク王ピピン3世となり、カロリング朝を創始しました。

ローマ教皇には一つの悩みがありました。それは、北イタリアのラヴェンナを占領したランゴバルド王国です。ランゴバルド王国はローマ教会に敵対的でした。ピピンは、ローマ教会の悩みを解決するためランゴバルド王国と戦い、ラヴェンナ地方を占領します。そして、ラヴェンナ地方を教皇に献上しました(ピピンの寄進)。これが、教皇領の始まりです。

カール大帝の生涯

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ピピン3世の跡を継いでフランク王となったカール大帝。彼の生涯は戦いの連続でした。ザクセン人、ランゴバルド王国、イスラム教徒、アヴァール人。これらの強敵と常に刃を交える「修羅の道」を歩んだ王です。相次ぐ戦いに勝利したカール大帝はローマ教皇から西ローマ帝国皇帝の冠を授かりました。カールの死後、巨大な帝国は孫たちの手によって分割されます。

カール大帝の即位とザクセン人との戦い

カールがフランク王になった時、最初に立ちふさがったのがザクセン人たちでした。ザクセン人の多くは、4世紀から5世紀にかけて現在のイギリスであるブリタニアにわたります(サクソン人)。

しかし、一部のザクセン人たちがドイツ北東部に残りました。ドイツに残ったザクセン人たちは徐々に勢力を拡大。カール大帝が即位したころには、フランク王国の東側を支配する大勢力へと成長していました。

772年、カールはザクセン人たちに対する征服戦争を始めます。カールの目的は領土の拡大とザクセン人のアタナシウス派への改宗でした。

ザクセン人たちはいくつかの有力部族ごとに部族国家を作っています。カールはザクセン人の部族国家と戦い、一つ一つ、フランク王国の支配下に収めました。カールが行ったザクセン遠征は全部で10。ザクセン人たちもしぶとく抵抗しますが、遠征開始から32年後の804年にカールに屈服します。

ランゴバルド王国討伐

西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた後、イタリア半島に進入したのが東ゴート王国でした。6世紀半ば、ローマ帝国の再建を掲げる東ローマ(ビザンツ)皇帝ユスティニアヌスは東ゴート王国を滅ぼし、イタリアを支配します。

ところが、6世紀中ごろ、一番最後に動いたゲルマン人であるランゴバルド人がイタリアに侵入(ランゴバルド王国)。8世紀中ごろにはイタリアから東ローマ帝国を追い払いました。

ランゴバルド王国はイタリア全土の征服を考え、ローマ教会を圧迫します。

ランゴバルド王国は、なぜ、ローマ教会を圧迫したのでしょうか。それは、ランゴバルド人が信じるキリスト教アリウス派アタナシウス派のローマ教会と対立していたからでした。

ローマ教皇はフランク王国を頼ります。ピピン3世がラヴェンナを占領。カール大帝がランゴバルド王国を滅ぼすことで、ローマ教会はランゴバルド王国の脅威から解放されました。

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