絶対的な力を持っていた教皇が幽閉された「アナーニ事件」を元予備校講師が解説
アナーニ事件の背景
中世ヨーロッパでは、キリスト教会が国王や貴族と並ぶ強大な権力として存在していました。キリスト教会のトップであるローマ教皇は「神の代理人」として絶大な力を持ちます。13世紀末から14世紀初頭にかけて、ローマ教皇として君臨したボニファティウス8世はカペー朝フランスの国王フィリップ4世と教会領に対する課税で激しく対立しました。
中世ヨーロッパのキリスト教会
476年、西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動などが原因となって滅亡すると、西ヨーロッパ全体を治める国はなくなりました。中世前期、ヨーロッパではゲルマン民族が建てた国が各地に成立。城砦を拠点に地域を支配する領主たちが国王よりも強い力を持ちました。
その中で、ヨーロッパ全体に影響力を行使したのがキリスト教会です。キリスト教会は各地に司祭を配置し、農民たちから十分の一税をとっていました。
司祭を束ねるのが司教、司教たちの上位に立ち広範囲を管轄するのが大司教です。司教や大司教は教会の指導者であるだけではなく、教会付属の土地の支配者でもありました。
ヨーロッパ全体に網の目のように張り巡らされたキリスト教会の力は非常に強く、国王や領主といえども干渉することができません。そのキリスト教会のトップに君臨したのがローマ教皇です。
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強大な教皇権
ローマ教皇が力を持つきっかけとなったのは756年のフランク王ピピンによる寄進です。これにより、ローマ教皇は宗教指導者であると同時に、イタリアの領主の一人ともなりました。世俗的な力を持った教皇の中には堕落した生活を送った者もいたようです。
11世紀後半、クリュニー修道院出身のグレゴリウス7世は教会改革を実行しました。グレゴリウス7世は、司教や大司教といったキリスト教会の職(聖職)の売買と聖職者の妻帯を厳しく禁じ、教会の綱紀粛正を図ります。
11世紀から12世紀にかけて、ローマ教皇は十字軍運動を推進。ローマ教皇が各国の王侯貴族を指導するスタイルが出来上がります。
13世紀初頭、ローマ教皇となったインノケンティウス3世は「教皇権は太陽で皇帝権は月」と言い放ち、神聖ローマ皇帝やイギリス王ジョン、フランス王フィリップ2世などを屈服させ教皇権の絶対性を示しました。
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教皇ボニファティウス8世
1294年、ローマ教皇の座に就いたのがボニファティウス8世でした。ボニファティウス8世はローマ近郊にあるアナーニ出身。本名はベネデット=カエターニといいます。
教会法を学んだ後、ローマ教皇庁に入りました。カエターニは教会内で確実に昇進。教皇選出権を持つ枢機卿となります。
カエターニ枢機卿は時の教皇ケレティヌス5世が辞意を漏らしたとき、退任するよう積極的に促しました。ケレティヌス2世の退位後、カエターニは枢機卿会議で教皇に選出され、ボニファティウス8世となります。
しかし、ケレティヌス2世が辞意を漏らした背景にボニファティウス8世の策謀があると考えたローマの有力貴族であるコロンナ家は、ボニファティウス8世を敵視しました。
フランス王フィリップ4世
1285年、カペー朝フランスの国王となったのがフィリップ4世です。整った顔立ちから「美王」、「端麗王」などとも呼ばれていますね。フィリップ4世は国内制度を整備し、新たに国王に忠実な官僚を登用するなど、中央集権化を図っていました。
フィリップ4世は王権を強化するには豊かなフランドル地方を支配する必要があると考え、フランドルの諸都市を支配しようと戦争を仕掛けます。フランドル諸都市はイングランド王エドワード1世に救援を依頼しました。
そのため、フィリップ4世はフランドル諸都市に加えイングランド王とも戦うことになり、戦争の規模が拡大しました。当初の想定より膨れ上がった戦費を調達するため、フィリップ4世は教会領にも課税しようとします。
アナーニ事件の経緯
フィリップ4世による教会領への課税は、教皇の力が国王よりも上だと信じるボニファティウス8世を刺激。両者は激しく対立し、ボニファティウス8世はフィリップ4世を破門しようと画策します。対立が激化する中、フィリップ4世の配下であったギヨーム=ド=ノガレとボニファティウス8世に反発するコロンナ家の人々がアナーニ滞在中のボニファティウス8世を急襲し捕虜としました。事件後、ボニファティウス8世は屈辱のあまり憤死します。
ローマ教皇による破門の効果とフィリップ4世の対抗策
ローマ教皇が国王や諸侯などの世俗権力に対抗するため用いたのが「破門」でした。破門とは、カトリック教会において教会が信徒に与える最も重い罰です。破門された者はキリスト教世界においてすべての権利を否定され、居場所を失いました。
破門されてしまうと、結婚はおろか、仕事上の付き合いや葬儀も不可能に。なぜなら、キリスト教徒は破門されたものとの交際を教会によって禁じられていたからです。
皇帝や国王が破門された場合、臣下は皇帝や国王の命令を無視することが許されました。皇帝や国王といえど、破門されてしまえば「ただの人」以下にされてしまうのです。歴代教皇は破門を最大の武器として教皇権を認めさせてきました。
フィリップ4世は教皇と対決する前に三部会を招集。破門されたとしてもフランスの利益を優先するということで国内世論をまとめていました。
フランス諸侯たちは十字軍時代に国王の権力が強まったことにより、遠いイタリアの教皇より近くにいる国王を重視。このこともフィリップ4世にとって有利となります。