日本の歴史昭和

「日中戦争」とは?なんで泥沼化した?日中戦争が起こるまでの事件を解説

日本は不拡大を続けることに

盧溝橋事件をなんとかして食い止めたいと思っていた政府でしたが、一応のことも考えて7月11日午前の会議で近衛内閣はは20万人の軍勢を中国に派兵することを決定。

その一方で近衛内閣は盧溝橋事件の対応は現地解決で終わらせてさらにはこれ以上中国に対して不拡大の方針を取ることを会議にて決定することになります。

しかし、中国軍と日本軍の衝突は収まりません。7月13日には北京の大紅門にて日本軍トラックが中国兵に爆破されてしまい日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。

さらに中国軍は日本の動きを妨害するために北京と天津を結んでいた電線を切断する作戦をとるようになります。

日本軍は北京・天津を結んでいる電線を修理し庸としますがその動きを察知した中国軍が襲撃を仕掛る郎坊事件が勃発。

この事件の翌日から日本軍による爆撃が始まり中国に対して妨害をやめるように要請を出します

しかしら中国軍はその要請を無視して日本軍にたびたび攻撃を行い日本軍は中国に侵攻を開始したのでした。

第二次上海事件

盧溝橋事件が起こってから一か月後の8月9日、非武装地帯となっていた上海において日本軍の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に殺害されるという大山事件が起こります。

この事件によって日本軍と中国軍は衝突を開始。日本と中国による熾烈な争いを繰り広げていくことになりました。
8月13日、日本は第二次上海事変に対応するために上海への陸軍派遣を決定。この第二次上海事変以降日本は中国本土に進撃を行い始めていき、日中全面戦争に発展ていくことになるのです。

トラウマン和平工作

日本軍は上海を攻略し、この当時首都であった南京にも攻撃を開始していきます。

そのさなかあくまでも不拡大方針をとっていた近衛文麿は中国側に対して和平工作を開始。日本と中国の共通する友好国であったドイツを介して和平を結ぼうと考えたのです。

1937年11月。日本政府は内蒙古自治政府の樹立、北京周辺と上海にに非武装中立地帯を設置することを提示。満州国以外の中国は蒋介石のものとして日本はこれ以上の拡大を行わないという内容と中国に若干譲歩した構えを見えていくようになります。

この和平の提案は駐日ドイツ大使からトラウトマン駐中ドイツ大使に渡されてそのまま蒋介石に伝達。日本は21か条の要求と同じように拒否すれば戦争を継続して中国に対して二度と手を緩めないという脅迫まがいの文章を付け加えました。

しかし、日本との対決を決心しており、さらには中国に有利に働いてくれるであろうイギリスやフランスに期待してこの和平条件を拒否。トラウトマン大使は蒋介石に対してここで和平を行わなければ日本は二度と和平に応じることはないと粘り強く説得を続けていき、中国国内でも「これだけの条件であれば手打ちにしてもよい」という和平に応じるべきという意見が多かったこともあり、蒋介石は和平を受け入れる準備を行うということを日本に対して通達します。

これで、日中戦争は単なる一大騒動で終わるかに思えましたが、その直後に状況が一気に悪化していくようになりました。なんと日本は中国の首都である南京を予想外の速さで占領。さらには中国北部の諸都市も次々と陥落させていき和平に応じるのではなく、このまま中国を征服するべきだという強行的な姿勢を日本は取り始めていくことに。

最終的には日本は中国に譲歩した和平条件とは打って変わって日本に対して中国が賠償金を支払うことや永久に中国に駐留するなど中国が到底受け入れられないような和平条件を突きつけることに。もちろん中国政府はこの和平条件を突っぱねてトラウトマン工作は失敗に終わってしまいます。

そして近衛文麿は1938年1月に第一次近衛声明で「国民政府を対手とせず」と表明。せっかくうまくいきかけた蒋介石との交渉を打ち切ってしまいました。ちなみに、日中戦争は日中のいざこざが結局戦争にまでずるずる長引いたため日中戦争は『宣戦布告なき戦争』と呼ばれることになります。

そのため日本では日中戦争を単なる事件の延長だとして支那事変と呼んでいました。

その後の日中戦争

image by PIXTA / 58158743

日中のいざこざがエスカレートして最終的には全面戦争に突入してしまった日本と中国。その後日中戦争は8年にもわたって泥沼の戦争を続けていくことになるのでした。

日本の進撃

こうして始まった日中戦争ですが、日本軍はまず中国北部を次々と侵攻。北京や徐州と言った中国北部の重要都市を次々と陥落していき南に進軍していきます。

一方で上海に駐留していた日本軍は中国の首都であった南京に向かって進軍を開始。

上にも書いた通り、和平工作が実現する少し前の1937年12月に南京は陥落。日本軍はこの南京陥落によって自信をつけて当時日本軍が日中戦争で手に入れた占領地域に南京政府という日本の傀儡国家を建国。蒋介石と敵対して日本軍に逃げているた国民党No.2の大物である汪兆銘をリーダーとしました。

その後、日本軍の総攻撃は続き、南京の臨時首都であった漢口も陥落。中国の諸都市が次々と陥落していき、日本軍が勝利する日も間近だと日本国内では言われていました。

しかし、中国は山に囲まれた地域がとても多くさらには人口に至っては世界一位。中国を半植民地にしたイギリスですら「イギリスが本気になっても中国の4分の1しか支配下に置くことができない」と言わしめた中国の本領がここから発揮されていくのです。

蒋介石は南京が陥落する少し前に成都に逃亡。中国内陸部にあった重慶を臨時首都として日本軍に抵抗します。

日本軍は重慶に対して無差別爆撃を開始しましたが、日本が中国を降伏するだけのダメージを与えることはできませんでした。

太平洋戦争中の日中戦争

日本に対して降伏の気配も見せることがない中国。実はこの時中国はイギリスやフランスなどの国々から援蒋ルートを通じて武器などの支援を受けており、最初は日本軍にかなわないほどだったのが、中国軍が強化されていくようになって日本に抵抗していくようになりました。これは日本にとって最大の問題となっておりこの援シャンルートの遮断が目的となっていきます。

そこで第二次世界大戦においてフランスが降伏したのと同時にフランスの植民地であったフランス領インドシナに進駐。いわゆる仏印進駐を行い援シャンルートの妨害を図ろうとしました。しかし、この行為がアメリカの怒りを買ってしまうようになり、アメリカは日本に対して全面禁輸を開始していくようになります。

当時日本は二年ほどしか戦争を継続できるほどの石油しか備蓄しておらず、日本は石油などの資源を求めてインドネシアなどの資源地帯に進出する南方作戦を実施。

アメリカの交渉もうまくまとまらなかったのを受けて日本はアメリカとの戦争を決定。1941年にハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まり、アメリカとイギリスなどの連合国と全面戦争に突入していくことになるのです。

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