日清戦争の背景
19世紀後半、欧米列強は次々と東アジアに進出を図ります。1840年のアヘン戦争で敗北した清国では洋務運動が行われました。日本はペリー来航をきっかけに明治維新が起き、国の形そのものが大きく変わります。その一方、朝鮮半島では王族の大院君による強硬な鎖国・攘夷政策が実行されていました。19世紀後半の東アジアについてまとめます。
中体西用の立場をとった清の洋務運動
1840年、清国はイギリス・フランスとのアヘン戦争に敗北。1856年のアロー戦争でもイギリス・フランスに敗北した清国は、外国に対抗するための改革を迫られます。
列強に対抗するためには、西洋にならった産業育成や軍の改革が必要だと考えた漢人官僚たちは、積極的に西洋技術の導入をはかりました。太平天国の乱の鎮圧でも活躍した曾国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らは上海・南京・福州・天津に四大工場とよばれる銃器や大砲、造船の工場を建設し軍の近代化を図ります。
しかし、中国の伝統文化や政治システムは改変する必要がないとしてそのまま温存されました。西洋技術は導入するが、思想は中国のままであることを「中体西用」といいます。
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明治維新を成し遂げた日本
1853年、アメリカ太平洋艦隊司令長官ペリーが黒船をひきいて来日。日本に開国を要求しました。江戸幕府は日米和親条約、日米修好通商条約を締結し伝統的な鎖国政策を放棄します。
開国後、日本国内では尊王攘夷運動が活発になり、薩摩・長州を中心とした勢力が新政府を樹立。戊辰戦争で江戸幕府を滅ぼしました。新政府は西洋式の技術や武器を導入するだけではなく、政治のシステムにおいても西洋の考え方を取り入れていきます。
西洋列強に対応するためには強力な中央集権国家になる必要があると考えた明治政府は版籍奉還や廃藩置県を実施。日本を中央集権国家へと作り替えていきます。
明治政府の改革は政治制度だけではなく、軍事、財政、文化などあらゆるものに及びました。自国の過去の文化にとらわれず、ここまで徹底して西洋化した国は世界史に例がありません。
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明治時代の日朝関係
戊辰戦争に勝利した明治新政府は隣国である朝鮮に対して国交を結ぶことを要求します。しかし、清国に服属し排外・攘夷の立場をとっていた朝鮮は国交樹立を拒否。これに反発した西郷隆盛らは朝鮮が開国を拒否した場合は武力を使ってでも開国させるべきとする征韓論を主張しました。
1875年、日本は日本軍艦が朝鮮の江華島砲台から攻撃された江華島事件をきっかけに、日朝修好条規を締結。朝鮮を開国させることに成功しました。日朝修好条規は日本に有利な不平等条約です。
朝鮮王朝から助けを求められた宗主国の清は、朝鮮半島で事件が起こるたびに介入し日本との対立を深めました。1884年の甲申事変後、日本と清国は天津条約を締結します。天津条約では、朝鮮半島から日清両軍が兵を退くことと、朝鮮に出兵するときは相互に通知することなどが約束されました。
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日清戦争の経緯
1894年、朝鮮で甲午農民戦争が勃発しました。農民反乱はまたたくまに朝鮮全土に拡大。朝鮮王朝は自力で農民反乱を鎮圧ができなかったため、清国に出兵を依頼しました。清国出兵の知らせを聞いた日本も朝鮮半島に出兵。両軍が朝鮮半島でにらみ合いました。1894年7月に日本が清国の戦艦を撃沈したことにより、日清戦争が始まります。
甲午農民戦争の勃発と日清両国の出兵
1894年、朝鮮半島南西部の全羅道で役人の不正に反対した全琫準(ぜんほうじゅん)が農民をひきいて反乱を起こしました。全琫準は民間の反キリスト教団体である東学の地方幹部だったため、東学党の乱とも呼ばれます。
反乱軍は一万人以上にふくれあがり一気に拡大。反乱を抑えきれないと判断した朝鮮政府は宗主国である清に出兵を要請します。清国が天津条約にもとづき朝鮮半島への出兵を日本に通告すると、日本も出兵しました。
日本の出兵に驚いた朝鮮政府は農民反乱軍と講和。反乱が収まり、出兵の理由が亡くなった日清両軍は撤兵の交渉を始めます。しかし、開戦の機会をうかがっていた外相の陸奥宗光は現地の大鳥公使に、いかなる手段を取ってでも開戦の口実をつくるよう訓令しました。
その一方、日本政府はイギリスと日英通商航海条約を締結。イギリスとの条約改正に成功し、領事裁判権の撤廃にこぎつけます。これにより、日本は清国との戦争に集中できるようになりました。
日清戦争の開戦と平壌の戦い
1894年7月、清国軍の増強の動きを知った日本は連合艦隊に対し、先制攻撃を指示。朝鮮半島東岸の豊島沖で清国海軍を攻撃し、日清戦争が始まりました。
朝鮮半島では日本軍と清国軍の陸上部隊同士の戦闘も開始。陸戦で清国の朝鮮駐屯軍を打ち破り、ソウル近郊から清国軍を追い出した日本は、朝鮮政府に圧力をかけ、同盟条約を締結させます。
9月、日本軍は北上した清国軍を追って平壌に迫りました。9月15日、日本軍は平壌周辺に展開していた清国軍と戦闘を開始します。清国軍内部では総司令官と配下の将軍たちの意見が折り合わず、各将軍が別々に日本軍と戦うことになりました。その結果、平壌の戦いは日本軍の勝利に終わります。平壌で敗北した清国陸軍は満州へと撤退しました。
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