幕末日本の歴史江戸時代

国のために徳川家へ嫁いだ「篤姫」徳川に殉じたその生涯を読み説く

黒船来航に天皇攘夷etc…。江戸末期の激動の時代を生き抜いた天璋院・篤姫!遠く鹿児島から徳川13代将軍徳川家定に嫁ぎ、夫の死後も江戸無血開城まで、徳川家のために波乱万丈の人生を送りました。晩年は、家達の教育係として徳川家に携わり将軍家の誇りを持って生き抜いた格好いい女性です。そんな篤姫の生涯を見てみましょう。

1.天璋院・篤姫誕生!実は篤姫は島津斉彬の従兄妹だった

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篤姫は、天保6年(1835)12月19日に、薩摩藩主島津家の分家今和泉島津家第10代当主島津忠剛(しまづただたけ)の長女として生まれました。母はお幸です。名は於一(おかつ)と付けられ、活発で好奇心旺盛な娘に育ちます。

父忠剛は、薩摩第11代藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)の父斉興(なりおき)の弟で、斉彬と篤姫は従兄妹です。でも、篤姫にとって斉彬は、薩摩の藩主であり雲の上の存在でした。

2.行き遅れの田舎娘に突然出された縁談話

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於一は、斉彬に呼び出され、いきなり将軍のもとに嫁ぐようにいわれます。当時は、薩摩(鹿児島)の田舎娘が、江戸にいくだけでも大変な事でした。それが天下の将軍に嫁ぐ事になったのです。薩摩の田舎娘於一の人生が、一変します。

2-1斉彬に呼び出された於一

現在も、日本を代表する名園と呼ばれる島津家別邸の「仙巌園」に、於一は呼び出されました。相手は、島津斉彬公。於一は、遠くから斉彬公を見た事はあるも、直接話したり近くによったりした事は全くありませんでした。

斉彬は、緊張して目の前に座っている於一の緊張を解くように、優しく話しかけたようです。「緊急の呼び出しには、さぞ驚いた事だろう。」といい、寛いだ物言いで「まず、一服進ぜよう。」と、斉彬自ら茶をたてて於一に振る舞いました

飲み終わった後、「そちに、頼みがある。」と、徳川13代将軍家定のもとへ嫁いでほしいと伝えました。当時は、14~15歳で女性は、嫁いでいました。所謂行き遅れだった17歳の於一に、突然の縁談話。しかも、雲の上の存在だった斉彬から頼み事で、相手は自分の身分では縁のない将軍世子のもとに嫁げといわれたのです。さすがの、於一も鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたとか。

2-2意味も分からないほどの縁談話に困惑する於一

殿さまのいう事には、逆らう事ができないのが当時の常識。いつも冷静沈着で聡明な於一も、「あの、私が…。」と一言発するのがやっとだったようです。江戸幕府から斉彬に「薩摩から嫁を迎えたい」との打診があった時に、於一に白羽の矢が立ったのはたまたまではありませんでした。

於一は落ち着いた立ち振る舞いができる女性で、軽々しい口を利く人物ではありませんでした。外見は寡黙で大人しいものの、自尊心の強い人物で、いわなければならない事はビシッという人物だとの評価だったといわれています。そこを認められての縁談話でした。さすが、名君として名高い斉彬のする事は、そつがないと思えるエピソードですね。

2-3この縁談の意味を伝えられる於一

その時、斉彬は、家定には2人の妻がおり共に亡くなっている事や、病弱で子どもができなく、後継者問題が勃発している事も話されました。しかも、斉彬が於一に期待する事は、世継ぎを産む事ではありません。水戸徳川家も推す「一橋慶喜(とくがわ よしのぶ)」を、時期将軍にするために大奥から力を貸してほしいと頼まれたのです。                                                     

斉彬は、「お飾りの将軍では日本は、外国に潰されてしまう。先を見据えた政ができる、慶喜様を時期将軍にするよう、家定公とその母で大奥の主である本寿院様を説得してほしい。」と告げました。その上で、「藩のためでも、将軍のためでもなく。日本国のために生きるのだ!」と諭したという説もあります。自身の生涯が激変する事と、その責任の重さを痛感した瞬間でした。

3.御台所となった篤姫は苦悩の連続

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斉彬の養女となり、江戸へいくも黒船来航などのトラブル続きで、婚礼までたどり着くのに3年の月日が経ちました。その間の篤姫は、上様はどんな人だろう?薩摩のために慶喜様を時期将軍へと導く決心を強く持ち、期待に胸を膨らませる日々を送りました。しかし、大奥に入った後は、周りは敵ばかり。篤姫に重くのしかかる責任と苦悩の日々が待っていました。

3-1斉彬の養女となったお姫様!篤姫誕生

斉彬が於一に全てを話した一年後のことです。父島津忠剛の娘では、将軍家に輿入れはできません。薩摩藩主の斉彬の養女となり、名を「篤姫(あつひめ)」と改名し鹿児島を出発ました。幕府も黒船襲来の一大事の時でもあり、篤姫は渋谷の薩摩藩邸に入り輿入れの日を待つ事になります。

その間に斉彬は、篤姫を右大臣近衛忠煕(このえただひろ)の養女とし、諱(いみな)を敬子(すみこ)としました。斉彬と思いを同じくしていた養父の忠煕も、喜んで篤姫を向かい入れています。

江戸で待ちに待った篤姫は、安政3年(1856)11月11日に江戸城へ入り、12月18日に婚礼が行われました。嫁入り道具を準備したのは、西郷どんです。もちろん、立派な道具が用意されています。実は、婚礼までには、3年の月日が立っており、篤姫は21歳になっていました。

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