イギリスヨーロッパの歴史

第二次世界大戦のイギリスを支えた「ウィンストン・チャーチル」をわかりやすく解説

どんな国にでも重要な局面に立たされれば基本的には強い人がリーダーとなるべきです。 特に第二次世界大戦の時代には各国強力な指導者が現れて第二次世界大戦を乗り切りました。 今回紹介するウィンストンチャーチルもそんな人物の1人。彼が首相を務めたイギリスは第二次世界大戦でドイツに侵略される危機を迎えるなど苦境に立たされるのですが、チャーチルはどのようにしてこの戦争を乗り越えたのでしょうか? 今回はそんなウィンストン・チャーチルについて解説していきたいと思います!

悪ガキだった幼少期

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1874年11月30日、ウインストンチャーチルはブレナム宮殿でランドルフ・チャーチルとジェニーの間に生まれました。

父であるランドルフ・チャーチルはスペイン継承戦争で勝利をおさめ、マールバラ公を持つ由緒正しい家柄であり、1874年には24歳の若さで下院に当選するなど政治家としても活躍していました。

しかし上流階級の家柄だったのか両親は忙しく、毎日決まった時間に親と会うことはあったものの気軽に会話をかわすことはできずに育児はもっぱら乳母にゆだねられていました。

そんなチャーチルでしたが、8歳になると寄宿舎の学校に入学。13歳のときにパブリック・スクールの名門で寄宿制のハロー校に入学。

そのためチャーチルが思春期を迎える頃には両親に会えることはほとんどないといっても同じ状態となってしまったのです。

さらには父が恋愛問題に首を突っ込んでしまいこれが当時のエドワード王太子(エドワード7世)の不満を買ってしまい左遷と同じような形でアイルランドに赴任。

父と会うことはほとんどなくなってしまったチャーチルはここから少しずつグレていく事になります。チャーチルは成績は全教科で最下位、運動はあまりできず、クラスの人からの人望もほとんどないまさしく落ちこぼれの生徒でした。そのため度々校長に怒られることがありましたが、その時チャーチルは逆ギレして校長が大切にしていた麦わら帽子を踏みつける暴挙に出てしまうほどだったとされています。

軍人としての道へ

18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし合格しても学科内でのヒエラルキーも存在しており、ギリギリ合格したチャーチルは父が希望していた歩兵科ではなく、馬の飼育にお金がかかってしまいあまり人気のない騎兵科の士官候補生になってしまいました。そのためチャーチルはお金にとても苦労していたそうで将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしているなど苦労を強いられていました。

しかし、軍人としての道は国民からしたら憧れの象徴。チャーチルがもともと軍に憧れていたこともあってか卒業した頃には130人中20位という好成績で士官学校を卒業。軽騎兵連隊に配属され軍人としての道を歩み始めたのでした。

しかし、そんな最中に父が梅毒にかかり全身麻痺となる重病を患うこととなり、父は世界旅行をしたのちに死去。チャーチルは父と一緒に議員になるという夢を持っており、それが叶わず終わってしまったことを受けて自分は父の意志を継ぐという決心もつけたそうです。

軍人としてのチャーチル

父が亡くなった直後に軽騎兵連隊に任官したチャーチルは訓練を受けるようになりますが、その実態はチャーチルが思っていた様子とはかけ離れていました。

そもそもチャーチルが軍人として活躍していた頃はヨーロッパではビスマルク体制。

普仏戦争以降50年以上列強同士の争いは起こっておらずさらには民主主義の浸透によってやがて戦争は無くなっていくであろうと考えていました。

軍人として戦争がないということは仕事がないと同義。チャーチルは軍務は自分の生涯の仕事ではない、チャーチルの心にそんな思いが芽生え始めていました。

しかし、ヨーロッパでは戦争はないものの、世界では植民地戦争の真っ最中。特にキューバでは独立戦争がおこっており、チャーチルは長い休暇が与えられていた仕官の特権を活かして父のつてをたどって現地へと出かけることになりました。

チャーチルとしたら戦場は憧れそのもの。ゲリラ襲撃や至近距離での銃撃戦を体験。冒険を求めてキューバを駆け巡るなどのちの生涯の重要な経験として活かされていくことになります。その後チャーチルは英領インド・スーダン・第二次ポーア戦争を渡り歩き経験を積むことに。チャーチルの代名詞でもある葉巻と執筆を行い始めたのもこの頃です。

政治家としてのチャーチル

第二次ボーア戦争に勝利して息巻いているイギリス。チャーチルはこれと同時期に行われた解散選挙に出馬することになります。結果は保守党の圧勝。チャーチルも当選し1901年チャーチルは政治家としての道を歩み始めていきます。

チャーチルは父が有名人であったのもあってか議会からかなり一目置かれる存在で着実と頭角を表していくように。

特にこの頃一つの問題となっていたイギリスの保護貿易問題では閣僚らの意見に反することも恐れずに自分の主張を展開するなど若手議員らしく勢いのある持論を展開していくようになります。

しかし、チャーチルが自由貿易を主張しているのに対して、保守党は保護貿易を主張。その結果、関税改革を巡ってチャーチルは孤立してしまい最終的には保守党を離党することとなります。その後自由党として臨んだ1906年の総選挙では自由党が勝利を収め、チャーチルは植民地省政務次官に就任。チャーチルは全土がイギリスの植民地となった南アフリカを自治政府という形で緩やかに統治を行っていく方針を展開。

その後、33歳の時に商工長官に就任し、35歳には内相にも抜擢。内相時代にはドイツとの間に起こった建艦ラッシュに対抗して海軍の改革を行ったりもしていました。

そして時代は第一次世界大戦に突入していくことになるのです。

第一次世界大戦

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1914年6月のサラエボ事件を機に三国同盟お結んでいたドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国と三国協商を結んでいたロシア・フランスの間で第一次世界大戦が勃発。

ヨーロッパ大陸ではちみどろの戦争が始まってしまったのです。

しかし、イギリスはこの戦争に果敢に首を突っ込もうとはしません。そもそも三国協商は同盟とは違って軍事的な内容ではありませんから参戦する義務はありませんでした。そのため議会ではこの戦争に参加するか否かで大揉め。

チャーチルはこの参戦問題に断固として参戦するように要求。

最初はチャーチルに疑問視していたイギリス議会でしたが、ドイツがベルギーに侵攻し始めていくことをキャッチすると一転参戦を決意。協商国として戦争に参加することになったのです。

しかし、第一次世界大戦はどちらの戦況も進まずに停滞。西部戦線は膠着状態に突入してしまい戦争の終結の糸口さえ見つからないという状態となってしまったのです。

そんな最中、チャーチルは政治生命の転換点となるとある戦争が。

1914年にドイツ側に参戦したオスマントルコ帝国をロシアがイギリスに対して圧力をかけて欲しいという要望を受けてトルコ西部のガリポリと呼ばれる地域に上陸計画を考案。

イギリスはフランスと協力していくとしてロシアとの協力を行わない方針で進もうとしてきましたが、当時海軍大臣であったチャーチルはこの計画を断行。しかし、結果はイギリスの大敗北。2万人が戦死してしまい、上陸作戦は大失敗に終わってしまいました。

この結果チャーチルは海軍大臣を罷免。閑職のランカスター公領担当大臣に左遷されてしまい政治生命を絶たれる危機に追い込まれてしまったのです。

イギリスの大政治家へ

左遷されてしまったチャーチルでしたが、チャーチルの才能を惜しむ人も多くなんとか第一次世界大戦が終結に向かおうとしていた1917年に軍需大臣として再び内閣の一員となることになります。

さらには第一次世界大戦が終結すると陸軍大臣と空軍大臣を兼任する政府の重鎮となり、元々反共主義であったこともありシベリアに出兵。

さらには中東とアイルランド問題を解決するために奔走していくようになりました。

その後労働党が政権を握るようになると危機感を抱保守党へと戻り、ボールドウィン内閣が誕生だときには大蔵大臣を務めることになります。

チャーチルが最初に課題としたのが金本位制度の復帰。金本位制度を復帰して財政を安定させるのが目的でしたが、この金本位制度が一番困るのが炭鉱業の人たちでした。

自分たちの意見とは真逆をいくチャーチルに激怒した労働組合はストライキを断行。

バスや列車などの交通インフラやガスや電気といったライフラインなどが次々と停止。チャーチルはこのストライキに真っ向から反発して最終的には政府の意向を押し通すことに成功しました。しかし、そんな彼のゴリ押しが内閣内からの不満が溜まる一つの原因にもなっていきます。チャーチルの激しい性格は戦後の平和な時代には必要ではなかったのです。

その結果チャーチルは選挙で勝利して再び組閣したボールドウィンはチャーチルを入閣させることはないことを表明。さらには保守党が労働党に敗北したことによって保守党は政権を失ってしまい、チャーチルの居場所はどんどんと無くなっていくことになります。

冷遇下でのチャーチル

内閣から冷遇されることになったチャーチル。その流れは新しく首相に就任したチェンバレンの時代にも続けられることとなります。

チェンバレンは2度と戦争を起こさないようにドイツに対して宥和外交を展開。ヒトラーがドイツを支配してラインラントに進駐した時もドイツに抗議をせず、さらにはドイツがオーストリアを併合したときにも何もせず、さらにはドイツがチェコスロバキアのズデーテン地方を要求したときにはミュンヘン会談にてドイツのズデーテン地方の要求を認めたりとドイツが戦争を起こさないように尽力していきます。

チャーチルはドイツに対して強硬的な姿勢で望むべきと主張していましたが、政治的実権のないチャーチルの意見は採用されることはなく、チェコスロバキアがドイツによって併合され、そしてついに1939年9月にドイツはダンチヒを取り返すためにポーランドへ侵攻を開始、戦争に参加すべきと押されたチェンバレンは仕方なくドイツに宣戦布告を行い第二次世界大戦が開戦しました。

ここまでくればもはや反戦など言っている暇はありません。チェンバレンは労働党との連立を模索しますが、あまりにも弱腰すぎるチェンバレンを首相にしておくべきではないと労働党は考えており、強硬派であったチャーチルを首相にすべきであるという声が議会で叫ばれるようになります。労働党もチャーチルを首相にするのであれば連立を組むと発言し、1940年5月10日にチャーチルは首相に就任。

第二次世界大戦を乗り越えるための挙国一致内閣を組閣したチャーチルはイギリスの指導者としてヒトラーに挑むことになるのです。

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