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中国を統一した「蒋介石」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

19世紀末から20世紀にかけて、中国を支配していた清王朝は滅亡の危機に瀕していました。清王朝末期に生まれ、革命家孫文と出会ったことで歴史の表舞台に登場したのが蒋介石です。蒋介石は軍人としてキャリアを積む一方、人脈を広げ孫文配下の有力者となりました。孫文死後、国民党を率いた蒋介石は中国の覇権をかけて毛沢東と争います。今回は、国民政府を率いた蒋介石について元予備校講師がわかりやすく解説します。

若き日の蒋介石

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1887年、蒋介石は中国南部の寧波市で生まれました。蒋介石は1906年に軍人を養成する保定軍官学校に入学。翌年から日本留学が始まりました。1911年に辛亥革命が起きると日本留学中に出会った陳其美の要請を受けて帰国し辛亥革命に参加しました。蒋介石は孫文が独自の軍事力を育てるために設立した黄埔軍官学校校の校長に就任し、国民党軍を育て上げました。

日本留学と孫文との出会い

蒋介石は、姓は蒋(しょう)、名は中正(ちゅうせい)、字(あざな)は介石(かいせき)。塩や酒をあつかう商人の子としてうまれます。そのため、子供のころは裕福な家庭で育ち、6歳で家庭教師が付けられるほどでした。

しかし、父は蒋介石が9歳の時に死去します。そのため、母親の手で育てられました。1906年、清王朝の陸軍学校である保定軍官学校に入学し軍事教練を受けます。翌年、蒋介石は来日し東京振武学校に入りました。

東京振武学校は、日本陸軍に入ろうとする清からの留学生の受け皿となる学校です。蒋介石は東京振武学校卒業後、新潟県高田市にあった第13師団に配属されます。

日本留学中に孫文の同志で中国同盟会の一員である陳其美と出会いました。蒋介石は陳其美を通じて孫文とも出会います。蒋介石は中国同盟会の一員として孫文の革命に軍事面から協力したいと申し出ました。

辛亥革命

1900年の義和団事件以後、清王朝は光緒新政とよばれる改革をおこないます。しかし、改革の成果は限定的でした。1911年、清王朝は外国からお金を借りて中国国内の鉄道を国有化しようとします。

外国からお金を借り言いなりなっている清朝政府に対し、内陸の四川省で暴動が発生しました。暴動は各所に拡大、10月には長江中流域の武将にいた清王朝の正規軍が反乱を起こしました。

武昌での蜂起を聞きつけた孫文は亡命先から帰国します。清王朝に対する反乱はさらに拡大し、各地を占領した反乱軍は清王朝からの独立を宣言。各地の代表は孫文を臨時大総統に選出しました。

清王朝は首都の北京で勢力を保っていましたが、北京で実権を握っていた袁世凱は孫文に取引を持ち掛けます。袁世凱は皇帝を退位させる代わりに、自分を臨時大総統にせよと要求しました。

孫文は清王朝滅亡を優先させるため要求を受け入れ、臨時大総統の座を袁世凱に譲ります。袁世凱は最後の皇帝である宣統帝を退位させ、清を滅ぼしました。

黄埔(こうほ)軍官学校

辛亥革命後、袁世凱との政治的な争いに敗れた孫文は国外に亡命しました。孫文は中華革命党を結成し、革命の継続を誓います。1919年、中華革命党は中国国民党へと改組されました。

孫文は革命成就のため「連ソ容共」の方針を掲げ、ソ連からの顧問団を招き入れます。中国共産党とも手を組んだため、この時期のことを第一次国共合作といいました。

蒋介石は孫文の命でソ連に派遣され、軍事制度などを研究します。1924年、孫文は国民党独自の軍を作る必要があるとして、黄埔軍官学校を広東に設立しました。蒋介石はこの学校の校長となります。

共産党とも連携していた時期なので、黄埔軍官学校には後に人民解放軍を組織する葉剣英や、後の首相の周恩来も参加。毛沢東も入学試験の面接官をつとめていました。この学校を卒業した士官たちは国民党軍の中核をなします。

孫文の後継者となった蒋介石

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1925年、革命の父である孫文が急死しました。孫文死後の混乱を収めたのは国民党軍を握っていた蒋介石です。蒋介石は孫文の遺志を継ぐとして北伐と呼ばれる軍閥討伐の軍事活動を開始しました。国民党軍が上海を占領したころ、蒋介石は国民党から共産党員を一掃する上海クーデタを決行。第一次国共合作が破綻し、第一次国共内戦が始まりました。このとき、蒋介石の後ろ盾となったのが妻の宋美齢の実家である浙江財閥の宋氏です。

北伐の開始と上海クーデタ

1925年、孫文が北京で急死した後、混乱を収め国民党軍を掌握したのが蒋介石でした。蒋介石は孫文の遺志を継ぐとして、広東の国民党軍を各地に派遣し、各地を支配していた軍閥を討伐します。

広東周辺の軍閥を平定した蒋介石は、北京に向けて進軍を開始しました。蒋介石率いる国民党軍が中国統一を目指して北上し、各地の軍閥を平定する戦いを北伐と言います。

1927年、北伐軍は南京、上海など華中の主要都市を攻略しました。国民党軍が上海の到着する3日前、共産党に指揮された労働者たちが上海から軍閥を追い払います。共産党の力が増すことを恐れた蒋介石は共産党の弾圧を決意しました。

蒋介石は上海の裏社会を仕切っていた杜月笙を動かし、労働者を攻撃させます。この騒動をきっかけに国民党軍が上海に攻め込み、共産党や支持者たちを一掃しました。この事件を上海クーデタと呼びます。

浙江財閥との結びつき

蒋介石が上海クーデタに踏み切った背景には、浙江(せっこう)財閥の存在がありました。宋家を代表とする浙江財閥は労働者の政権が出来上がり、財産が没収されることを恐れます。そのため、蒋介石に接近して共産党と決別させようとしました。

蒋介石は宋家の三姉妹の末娘である宋美齢(そうびれい)と結婚し、浙江財閥との結びつきを強めました。浙江財閥は高級官僚の立場を利用して財産を蓄え、国際都市上海で外国資本と結びつき莫大な富を築きます。

ちなみに、宋家の三姉妹の長女は財閥の孔氏に嫁ぎ、次女は孫文と結婚しました。宋家などの浙江財閥は国民党、特に蒋介石を熱心に支えます。蒋介石は宋美齢との結婚によって、革命の父である孫文の義理の弟という立場を手に入れ、自身の政治基盤を強化することにも成功しました。

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