鎌倉末期の政治と足利氏
鎌倉時代末期、北条氏による政治は行き詰まりを見せ、各地で幕府に対する不満が渦巻いていました。蒙古襲来に対する恩賞の不足や分割相続により生活に苦しむ御家人に対して、幕府が有効な対策を打てなかったからです。源氏直系という血筋の良さもあり、足利氏は北条氏と良好な関係を維持しました。しかし、尊氏の代になると幕府との関係が徐々に悪化します。
北条氏による独裁政治
蒙古襲来以後、鎌倉幕府執権の職を世襲していた北条氏に権力が集まります。北条一門のトップは得宗とよばれ、日本の政治に大きな影響力を及ぼしました。
そのため、幕府の重要事項は得宗とその家臣によって決定され、有力御家人ですら政策決定から外されてしまいます。こうした得宗による政治の独占を得宗専制といいました。
さらに、蒙古襲来に参加した御家人たちは十分な恩賞を支給されず、生活に困窮します。加えて、御家人たちの遺産相続は分割相続が普通だったので、代を重ねるごとに所領が小さくなってしまいました。
政治から排除され、経済的にも苦しくなった御家人たちは北条氏の独裁政治に強い不満を持ちました。幕府は御家人たちの経済的苦境を和らげるため、借金を事実上帳消しにする徳政令を出しましたが、うまくいきませんでした。
足利氏と北条氏の関係
2代目当主足利義兼は源頼朝の御家人として鎌倉幕府成立時に活躍。北条政子の妹である時子を妻とし、将軍家、北条氏の両方と良好な関係を築きます。3代目当主足利義氏は和田合戦、承久の乱などで北条氏とともに戦い幕府軍を勝利に導きました。
6代目当主の足利時氏も幕府の有力御家人として活動しますが、1284年に自害しました。自害の理由は鎌倉幕府内部での権力闘争に巻き込まれたためと推定されますが、定かではありません。
この時氏については「置文伝説」が語られています。置文を残したのは平安時代の源氏の英雄、源義家。義家は「七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」と書き残しました。
七代の子孫にあたる家時は、自分の代では天下を取ることができないと考え、「自分の三代の子孫に天下を取らせよ」と八幡大菩薩に祈願してから自害したといいます。時氏の三代の子孫、つまり、孫にあたるのが足利尊氏でした。置文の真偽はともかく、北条氏と足利氏の間に何らかの確執があったことをうかがわせるエピソードですね。
尊氏と鎌倉幕府の対立
足利尊氏は1305年、7代当主足利貞氏の子として生まれました。1319年に元服した時は「高氏」と名乗ります。これは、北条氏の得宗、北条高時から一字をもらったものでした。高氏には兄がいましたが、高氏が家督を継ぐ前に亡くなってしまいます。
このころ、後醍醐天皇はたびたび幕府と対立し、後醍醐天皇に味方する武士たちが近畿地方で挙兵を繰り返していました。1331年、後醍醐天皇が笠置山で挙兵した元弘の乱で、幕府は高氏に出兵を命じます。
高氏は父の喪中であることを理由に出兵を拒否しましたが、受け入れられず、北条氏に反感を持つきっかけになりました。
高氏は後醍醐天皇がこもる笠置山攻略に活躍し、楠木正成と赤坂城で戦い勝利します。高氏にとって不本意な出兵だったためか、朝廷への挨拶もせずに鎌倉に引き返してしまいました。
建武の新政への参加
元寇の乱に失敗し、隠岐に流された後醍醐天皇は1333年に隠岐を脱出。伯耆国船上山に立てこもりました。幕府は病気療養中だった高氏に後醍醐天皇と戦うよう命じます。しかし、高氏は後醍醐天皇ではなく幕府の出先機関だった六波羅探題を攻撃、幕府を滅亡に追いやりました。建武政権の成立後、中先代の乱の鎮圧のため鎌倉に戻った尊氏は後醍醐天皇との戦いを決意します。
六波羅探題への攻撃
1333年、隠岐に流された後醍醐天皇は天皇を支持する武士たちの支援により隠岐を脱出。伯耆国船上山にたてこもりました。後醍醐天皇の脱出と挙兵の知らせを聞いた幕府は、再び高氏に討伐を命じます。
幕府は高氏の妻子を人質に取った上で出撃させました。病気療養中、しかも、妻子を人質に取られた高氏の胸中には幕府に対する強い反感を抱いたのではないでしょうか。
高氏は京都周辺にたどり着くと、後醍醐天皇に忠誠を誓い幕府の出先機関である六波羅探題を攻撃し、陥落させました。同じころ、関東では新田義貞が鎌倉を攻略。北条高時以下、北条氏一族を自害に追い込みます。
なお、混乱に乗じて高氏の妻子は脱出に成功しますが、庶子の一人が脱出に失敗し殺されてしまいました。
鎌倉下向
後醍醐天皇が政権を掌握すると、高氏は功績第一と認められ従四位下、鎮守府将軍に任じられます。また、名前も後醍醐天皇の名の一字をとって「尊氏」と改名しました。
1334年、後醍醐天皇による建武の新政が始まりましたが、尊氏自身は政府の要職に付かず、部下たちを政権に送り込みます。
1335年、信濃国で北条高時の遺児である北条時行が反乱を起こしました。北条時行の反乱を中先代の乱といいます。討伐に当たって、尊氏は征夷大将軍への任官を望みましたが、幕府の再建を警戒する後醍醐天皇は征夷大将軍への任命を拒否しました。
征討軍がなかなか出発できない間に乱の勢いは拡大。一時は鎌倉を占領するほどでした。尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに出撃。時行の軍を打ち破って鎌倉を奪い返します。尊氏は乱の鎮圧後も京都には戻らず、鎌倉で戦後処理に当たりました。