日本の歴史昭和

「日中戦争」とは?なんで泥沼化した?日中戦争が起こるまでの事件を解説

リットン調査団の派遣

こうして中国の要望によって柳条湖事件の検証が行われることとなります。

国際連盟側はイギリスのリットン卿をリーダーとするを団長とするリットン調査団が派遣日本の軍がやったのか、中国の軍がやったのかの検証が行われました。

しかし、関東軍が犯した犯行ですから検証結果は「日本の侵略行為」として断定。

これを国際連盟に提出して日本に対して満州から撤兵する様に求める決議案が採決されることになります。

ちなみに、日本が列強であったことや、イギリスやフランスも同じような形で侵略していることからこの国際連盟の決議案は日本側のこともちゃんと考慮しており、満州については日本軍に有利となる形で国際管理にすることが決められることとなりました。

日本がここで引いていればもしかしたら自然な形で満州は日本のものになっていた可能性は非常に高いです。

しかし、せっかく満州を占領したのにこの決議案が採択されて仕舞えば日本のこれまでの活動は無駄になることになると判断した日本はこの決定に当然納得がいくわけがありません。

しかし、日本の想いは虚しく採択に参加した国の中で日本とシャム(棄権した)以外は全員賛成。

日本の意見が認められないのであれば国際連盟にいる意味はないとして日本の国際連盟代表団のリーダーであった松岡洋右は会場から引き揚げ国際連盟脱退を表明。

せっかく手に入れは国際連盟の常任理事国という立場を捨ててまで満州を手に入れたいとした日本はここから国際的に孤立を深めていくことになるのでした。

またこの頃には日本人の僧侶が日本に反感を持っていた中国人に襲撃された事件を発端として日本軍と中国軍が衝突する第一次上海事変が勃発。最終的には日本軍と中国軍は停戦協定を成立させることになるのですが、ここまでくるともう泥沼状態と言って良いですね。

抗日民族統一戦線の結成

こうして満州の実権は日本に渡されることになりましたが、中国では日本の打倒を目指していく動きが見られていくようになります。

蒋介石自身はまず、国内にいた共産主義勢力を打ち破ってそこから満州の対応を目指していこうとして行くのですが、この動きをよしとしなかった張学良は1936年12月に西安にて蔣介石を軟禁。共産主義勢力を潰したい決心を固めた蒋介石をなんとかして日本と戦わせるために共産党との内戦の停止と国民党と共産党が手を組む国共合作を強く求めるように。もちろん日本が中国を狙っているというとは蔣介石も承知でしたので、蒋介石は共産党との協力を受諾。国共内戦を止めて中国国民党と中国共産党の第二次国共合作が成立することとなりました。

国民党は中国の全土に対して戦争を挑む抗日民族統一戦線を結成し、紅軍は国民党軍に編入されて八路軍となって抗日戦の主力となりました。

一方で中国と日本の交渉も水面下で行われており、梅津・何応欽協定を結び河北省から中国の勢力を排除。さらには6月に土肥原・秦徳純協定を締結して内蒙古のチャハル省を日本の勢力下に置き、北京周辺の地域に冀東防共自治政府を設立。北京付近の権益を拡大したことによって中国の利益をさらに拡大したのです。

運命の盧溝橋

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1937年7月7日。この日、盧溝橋という橋をまたいで日本軍による演習が行われていました。この当時北京には北京議定書によって日本軍は北京に軍を駐留していたのです。軍事演習自体はいつも行われていたことだったのですが、とある時日本軍に向かって謎の発砲が行われました。さらには軍隊の1人が行方不明になったこともあってか日本軍は騒然となります。

日本軍はこれを国民党軍による挑発と断定して中国軍に対して反撃を開始。盧溝橋を挟んで日中間で小競り合いが起こり始めました。

この時の日本の隊長は牟田口大佐は反撃を行っていくのですが小競り合いが起こった後日本軍と中国軍は盧溝橋付近で停戦協定が締結盧溝橋事件は単なる小競り合いで幕を下ろしたのでした。

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