教養歴史

明治時代から昭和時代まで存在した「大日本帝国憲法」について解説!

今回解説していく大日本帝国憲法は1889年から1948年までの間日本に存在した最高法規です。 この憲法はアジアで初めて機能した憲法として世界から評価されましたが、果たしてこの憲法はどのようにして成立していったのでしょうか? 今回はそんな大日本帝国憲法について解説していきたいと思います!

大日本帝国憲法の簡単な概要

大日本帝国憲法(明治憲法)は1889年2月11日に発布され翌年11月29日に施行された日本初の近代憲法です。条文は全部で7章76条まであり、名目では天皇から国民に対して発布するという欽定憲法という形で発布されましたが、アジアの中では短期間で廃止されたミドハト憲法についで2番目に施行され、1946年に今の日本国憲法が制定されるまで日本の憲法として機能していました。

大日本帝国憲法が制定されるまでの歴史

image by PIXTA / 26163923

日本が近代に移行した象徴となった憲法発布。しかし、この憲法が発布させる間には明治時代の政治家の涙ぐましい努力がありました。

近代法を作らなければ!明治政府の憲法制定

1868年。江戸幕府が大政奉還によって実質的に崩壊すると新政府は明治天皇を中心とする新しい国づくりを始めようとしました。

1871年には廃藩置県が行われこれまで地方政治の形式が強かった日本は政府がすべての地方の政治を管轄する中央集権国家となり、さらには旧大名家や貴族や武士以外の全ての人を平民とし、誰もが自由に活動していくようになりましたが、政府の議題はもっと大きな範囲でのものでした。

この当時、日本は世界からはまだ近代国家とは認められてはいません。簡単に言うと舐められている状態でした。ではなんで舐められる状態となったのかと言うと明治時代初期の日本には法律の規範となる憲法というものがなく、近代法という形が存在していなかったのです。

なんとかして憲法を作らなければいけない。政府の要人たちはそう感じていましたので1875年に政府は漸次立憲政体樹立の詔を発布。漸次は「いずれこうするつもり」というかなり曖昧な意味でしたが、政府はこの時初めて憲法をいずれ作るということを宣言したのです。

私擬憲法の作成

こうして政府はいずれではあるものの憲法を作ることを明言しましたが、何も憲法を制定したいと感じていたのは政府の要人だけではありません。この当時日本では自由民権運動という言論の自由や民衆の政治の参加などを求めた運動が起こっており、盛んに民間の間でも憲法を執筆していました。私擬憲法は植木枝盛が起草した急進的な憲法である東洋大日本国国憲按や大日本帝国憲法とだいたい同じ構造となっている五日市憲法など種類はさまざま。しかし政府は民間がでしゃばるのを嫌っていたので1887年の保安条例で民権運動家は東京より退去を強いられてしまいました。

ちなみに、私擬憲法は大日本帝国憲法では活かされませんでしたが、その次の日本国憲法にはある程度反映されているので作ったことは無駄ではなかったようです。

どの国をモデルにするか問題

こうして民間レベルでも憲法が盛んに作られていたのですが、政府は日本の完全オリジナルではなくある程度ヨーロッパの先進国の憲法をベースとして憲法を作ろうと考えていました。しかしそこで出てくるのが「どこの国をモデルにするのか?」という話。ヨーロッパといえど色んな国がありますから慎重に選ばなければいけません

そこで伊藤博文らは憲法を学ぶためにヨーロッパに派遣され、いろんな国の憲法を勉強していくようになるのですが、ドイツ帝国の憲法が非常に日本が目指している憲法と似ており、この憲法を使うことで日本は立憲政治を実現することができると判断。ドイツ帝国の宰相であったビスマルクもこの考えに大賛成し、ルドルフ・グナイストやロレンツ・シュタインなどから憲法を学び、日本に帰ってからはドイツの憲法を中心とした形で憲法を作ることになりました。

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