日本の歴史

日本の古都京都の知られざる歴史について解説!

今では世界でも有数の観光都市となっている京都。この京都ができたのは794年ですので1200年前から都として活躍していきました。 しかし、この京都はいつも都として機能したわけではなく、時代によって一時期寂れたこともあったのです。 今回はそんな京都の歴史について解説していきたいと思います。

そもそもどうして京都と呼ばれるようになったのか?

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元々京都という地名は皇帝が住んでいる場所や首都という意味が込められていました。ちなみに、後漢の頃までは京都とは呼ばず京師と呼ばれていたのですが、これが司馬師という人の名前と被っている理由で京都と呼ばれるようになったのですよ。

そのため平安京が作られた当時京都というのは普通中国唐の首都長安のことを指しており、それにあやかってか平城京や平安京を作ったのちその固有名詞として京都という文字が使われ始めたのでした。

ちなみに、京都に行くことを上洛というのですが、この洛の時は元々中国の古都洛陽のことを指しているんですね。

そうだ!京都へ行こう!桓武天皇の平安京造営

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今の京都市に都が移ったのは794年。鳴くよウグイス平安京とも覚えた方もいるとは思いますが、この年に桓武天皇は山城国のちょうど中心部に都を築きました。

でも、実は桓武天皇が遷都したのはこれで2度目。元々は京都市から少し外れた場所にある長岡京に都が置かれていたのです。

遷都にかかる費用は莫大。そんなわざわざ平安京に移さなくても良かったのではないかと思いますが、それはまた後ほどに。

さて、都が移ったならば最初にやらなければならないのが都のまちづくり。平安京は北西東に山、南に平野が広がっている上、東に鴨川、南西に桂川が流れている風水にすごく適応している絶好のスポットでした。

そんな風水に適している場所に東西約4.5キロ、南北5.2キロの長方形を基準に縦横の直線で区切るという条坊制の形がとられ、天皇がお住まいになる大内裏の中心からは朱雀大路と呼ばれる一際大きい道が作られ、その南端には羅城門が置かれました。

これは当時アジアで一番栄えていた国である唐の都長安を基にしたデザインであり、今でも京都の街は碁盤の目となっているように平安京の名残が残っているんですよ。

平安京は日本の都でありながら怨霊の都であった

平安時代といえば遣唐使が廃止されて以来日本特有の文化が花開いた時代でもあるんですが、その裏では平安時代は怨霊が渦巻く時代でもありました。

色々な技術があまり発達していないこの時代、震災などの自然災害などは祟りや物の怪の仕業とされていたのです。

例えば代表的なものを挙げるとするならば早良親王と菅原道真の怨霊が有名ではないでしょうか?

早良親王は桓武天皇の弟として天皇の後継者候補としても有力だったのですが、長岡京の造営中に藤原種継が暗殺されるという事件が起こると彼がやったという噂が流れ、早良親王は弁明の機会を与えられず淡路島に流罪となり、流されている途中で食事を断ち亡くなったそう。

そしてその無念の思いは長岡京に直撃。桓武天皇の親戚は病に倒れ、長岡京での疫病の流行。極め付けには桂川が大洪水を起こして長岡京を襲うなどまさしく踏んだり蹴ったり。桓武天皇は「これではやばい!」と思ったのか長岡京を離れて怨霊が来ないように風水に適している平安京に移ったのでした。

そのため、平安京では怨霊が来ないようにする仕掛けがいっぱい。例えば怨霊がやってくる鬼門と呼ばれる方角があるのですが、そこに日本最大級のお寺を置いてカバー。これが今で言うところの比叡山延暦寺となっています。

さらに、この時代には陰陽師という占いのエキスパートの人達が怨霊がうろついているのかを診断して日々の生活をサポートすることもあったとか。

政変などで有力な貴族たちを失脚に追い込むことが多かった平安時代。藤原北家などの名だたる貴族たちは追い落とした貴族の怨霊をなんとかしたかったのですね。

京都が目立たなくなってしまった時期

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さてさて、ここまでは平安時代の平安京について解説していきましたが、平安時代後期になると武士という新しい身分の人たちが台頭していき、最終的には源頼朝が鎌倉に幕府を構え行政面での表舞台を奪われることになりました。

次は平安時代後期から鎌倉時代にかけての平安京について見ていきましょう。

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