大正日本の歴史明治昭和

日本資本主義の父「渋沢栄一」の理念と生涯についてわかりやすく解説!

見事に一万円札の肖像画となることが決まった渋沢栄一。 一万円札の肖像画となったことによって名前を聞いたことはあっても、詳しくはご存じないという人はかなり多いと思います。そこで今回はそんな渋沢栄一がどのような生涯を送っていき、そして資本主義の父と呼ばれるようになったのかについて見ていきたいと思います。

商人気質が強かった渋沢栄一

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渋沢栄一は、1840年に武蔵国深沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の農家の長男として生まれます。

渋沢家は農家の身分でしたが農業をするかたわら藍の製造販売と養蚕を兼営ている豪農で知られていました。農民といっても栽培していた藍や蚕などを販売していたおかげで若いころの渋沢商人のスキルを上げていきます。

渋沢栄一は14歳の時からは単身で藍の素材の仕入れのために信濃・上野などに出かけるようになりました。この時の経験が後の商売人としての優れた才覚に繋がっていくことになるのです。

尊王攘夷の運動に参加

商売人としての道を歩むかに見えた渋沢栄一ですが、時は幕末の時代に突入していました。

1853年にペリーが来航したことによって日本に外国人の商人が入ってくるようになり外国製の安い製品によって国内製品は大打撃を受けるようになります。

渋沢栄一は北辰一刀流の師範であった千葉栄次郎の道場に入門し剣術修行に励むようになりますが、元々商人であった彼にとって外国人は邪魔臭い存在であり、さらに幼少期の頃から見ていた国学の本に感化されたことによって勤皇志士と交友を結び、尊王攘夷を唱えるようになりました。

渋沢栄一は高崎城を乗っ取りそこから横浜を火の海にした上で幕府を倒す計画を練っていましたが、この頃に入ると幕府は八月十八日の政変によって尊王攘夷運動は下火に入っていたこともありこの計画は頓挫。

しかし、この周遊の時に知り合った一橋家家臣の推薦もあってか一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に仕えることになりました。

パリ万国博覧会に出席

こうして一橋慶喜の家臣となった渋沢栄一でしたが、家臣になった直後に一橋慶喜が将軍に就任したことによって幕臣となります。そして幕臣としての与えられた仕事がパリ万国博覧会への出席でした。

幕府はフランスと仲が良かったため、そのついでとしてフランスへと渡ることになったのですがいざフランスに行くとそこには日本とは別世界の街並みや技術の進歩があり、日本が勝てる相手ではないということをまじまじと見せつけられたのです。

渋沢栄一はこのフランス万博の時に株式会社という制度に触れるようになり、そしてこの株式会社の設立のために奔走をすることになるのでした。

日本への帰国と政府への出仕

こうしてフランスの進んだ社会制度や技術などを体験した渋沢栄一でしたが、日本の方では1868年に大政奉還をしたことによって幕府が崩壊。渋沢栄一はこれによって新政府から帰国するように命令され、渋々と日本に帰国することになりました。

渋沢栄一はその後徳川慶喜が新政府から新しく与えられた駿府藩(静岡県)に仕えることになるのですが、その時に徳川慶喜から自分の道を進むようにとアドバイスされ自立することを決意。

フランスで学んだ株式会社を日本で運営するために奔走することになります。そして渋沢栄一は1869年に静岡で日本で初めての本格的な株式会社である商法会所を設立。米穀や茶、蚕糸の買入れ販売といった商業務と金融業務を行うことを企画してある程度の成功を収めたのでした。

しかし、この活躍を見ていた新政府の大隈重信は渋沢栄一を大蔵省に推薦。そもそもあまり乗り気ではなかったのですが政府の要人からの要望とあれば引き受けざる負えず大蔵省に入省。

大蔵省の官僚として度量衡の統一や国立銀行条例などといった財政改革を行い、目覚ましい活躍を見せるようになりますが大蔵省との方針に反発したことによってあっさりと大蔵省を退官。ここから渋沢栄一は民間として財界を引っ張ることになるのでした。

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