法華経はどうやって伝わってきたのだろう
お釈迦様の説かれた教えは仏教といい、キリスト教やイスラム教とともに世界三大宗教と呼ばれています。仏教には2つの流れがあり、スリランカやタイなどに広まった上座仏教と、ユーラシア大陸をシルクロードに乗って中国を通り日本にやってきた大乗佛教とよばれているものですね。その中でも法華経は重要なお経で仏教の原点である「誰もが平等に成仏できる」という内容となっていますよ。
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法華経の成立ち
法華経はサンスクリット語で『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』意味は「正しい教えである白い蓮の花の経典」といいます。略して法華経と呼ばれていますが「妙法蓮華経」というのが正式名ですよ。
元々はお釈迦様の教えは口伝で文章化されていないため「このままでは廃れてしまう」という危惧から、弟子の「マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)」が中心になって、サンガと呼ばれる出家集団がそれぞれが聞いた教えを集めていきました。それが文章化されていき現在まで続いているのですね。
その中で法華経は、お釈迦様の晩年に「霊鷲山」で説かれた「諸経の王」と呼ばれています。この悟りを得た時には喜びのあまり駆けだしたという逸話が残っていますよ。
法華経はインドから中国へ伝わる
法華経はインドでも広く信仰されていたためにサンスクリット語で残っているものが多いです。他にもチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語などの翻訳が多いのも、どれだけの国に広まっていったかがわかりますね。
日本で使われている法華経は、最初の「三蔵法師」である「鳩摩羅什(くまらじゅう)」という、亀茲国(きじこく)(現・新疆ウイグル自治区)出身のお坊さんが中国語に訳したものです。「最初の三蔵法師?」と思われる方も多いでしょうが、三蔵法師とよばれるのは「仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶」のことで、「西遊記」のモデルになった「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」と鳩摩羅什は、三蔵法師の両雄と呼ばれているのですね。
後秦(384年 – 417年)の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳していますよ。浄土経典などもそうですね。漢字なのに読み方がちょっと違う箇所があるのは、この時代の読み方なんですよ。
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法華経が日本に伝わる
日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』には飛鳥時代の552年。欽明天皇に百済の聖明王からお釈迦様の金銅像と経典などが献上されたとありますが、歴史の教科書などでは、聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』を採用して538年と書かれていますね。仏教の信仰を勧めた蘇我氏と、古来の神道を信じている物部氏との争いは長く、用明天皇の後継者問題で物部守屋が亡くなるまで続きました。
聖徳太子の時代に日本へ
蘇我馬子と物部守屋との戦いの中で「聖徳太子」は蘇我馬子の軍にいました。お母さんが蘇我馬子の姪で、蘇我馬子の家で産まれたという縁もあったのでしょうね。そのために聖徳太子は子供の時から仏教を信仰していました。戦いの中で追いつめられた時に、聖徳太子は天の四方を守護する「四天王(東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天)」に必勝祈願をして勝ったために「四天王寺」を建立します。
聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を篤く信仰して、それぞれの解説書を書いていますよ。その中でも『法華義疏』は日本で残る最古の肉筆原稿といわれて現存しています。(他の2つは写本が残るのみ)この3つが『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)とよばれているものですね。
法華経の精神「和をもって尊し」から『十七条の憲法』を作ったとされて、日本で一番最初に「南無妙法蓮華経」と表記したのも聖徳太子だといわれていますよ。聖徳太子の後も、法華経は守護国家という意味からも仏教の重要な経典のひとつであるとされていきます。聖武天皇の皇后である光明皇后も全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉しました。
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