- 飛鳥時代の基礎知識・いつ頃?どんな時代?「飛鳥」とは何?
- 時代区分には諸説あり~飛鳥時代の始まりはいつ?
- 十七条憲法・遣隋使・法隆寺……聖徳太子が活躍した「推古天皇」時代
- 蘇我氏ムカつく!もう我慢できない!乙巳の変から大化の改新へ
- 白村江の戦い・国外も国内も大揺れ・大ピンチ!
- 天智天皇の後継者は?壬申の乱・そして奈良時代へ
- もっと知りたい!飛鳥時代の息吹を感じる遺跡・スポットとは?
- 日本初の本格的な都の痕跡・藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)
- 埋葬されているのは蘇我馬子?石舞台古墳
- すべてはここから!蘇我馬子が建立した「飛鳥寺」
- 古代から中世へ・日本が大きく変わった「飛鳥時代」に思いを馳せる
この記事の目次
飛鳥時代の基礎知識・いつ頃?どんな時代?「飛鳥」とは何?
日本は長い歴史を持つ国です。世界の中から見れば小さな島国かもしれませんが、この島の中で数千年にわたり、多くの人々が作物を育て、木の実や魚を採って暮らしてきました。やがて集落が大きくなって組織ができ、役割や決まりごとが作られていきます。ただ集まって食べ物を集めて暮らすだけではない組織づくり。飛鳥時代はまさに、そういう時代だったのかもしれません。
時代区分には諸説あり~飛鳥時代の始まりはいつ?
いつからいつまでを「飛鳥時代」と呼ぶかについては、いくつかの説があるようですが、推古天皇が即位することになった592年から、奈良時代が始まる710年までと見るのが一般的です。
飛鳥時代の少し前、日本では蘇我(そが)と物部(もののべ)の二大勢力の対立関係が激化していました。
争いの要因のひとつは、538年に大陸から伝来した仏教に関すること。仏教は非常に影響力の大きな存在で、日本古来の神々と同じように崇拝すべきか否かで、有力者の間でも意見が分かれていました。これが、蘇我・物部の二氏の勢力争いと絡み合っていきます。蘇我氏は崇仏派、物部氏は排仏派として、両者は激しくぶつかり合っていました。
587年、蘇我氏が物部氏を倒し、両者の抗争は一応決着。蘇我氏のトップ・蘇我馬子は堂々と、飛鳥(現在の奈良県の中央部)というところに法興寺(別名・飛鳥寺)建立し、朝廷でもの実権を握ります。
蘇我氏の勢いは相当なものでした。蘇我馬子は592年、自分が擁立した崇峻天皇の暗殺を命じ、推古天皇を即位させます。推古天皇は日本初の女性天皇。飛鳥地方の豊浦というところに天皇が居住する宮が置かれました。この推古天皇の即位を、飛鳥時代の始まりとしています。
十七条憲法・遣隋使・法隆寺……聖徳太子が活躍した「推古天皇」時代
593年、推古元年。歴史の区分としては「古墳時代」と呼ばれる時代が終わり、天皇を中心とした新しい国づくりが始まろうとしていました。
というのも、古墳時代の最後は、蘇我氏や物部氏など有力豪族たちが争いあって荒れ模様。推古天皇は天皇の力を取り戻し体制を立て直したいと考えていたのです。
そこで推古天皇は、自身の親戚筋で信頼のおける、才能あふれる青年・聖徳太子をそばに置き、政治を任せることにしました。いわゆる「摂政(せっしょう)」政治。摂政とは、天皇が病弱だったり、まだ子供で政策をとることができなかったり、天皇が女性であるときなどに、天皇を助けて政治を行う役職のことです。
飛鳥時代が始まる直前、聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)は蘇我氏側についていました。しかしだからといってエコひいきするような聖徳太子ではありません。蘇我氏が力を持ちすぎないよう気を配りながら、様々な政策を行っていきます。
まず、仏教を広めることが穏やかな国づくりにつながると思った推古天皇は、各地に寺院を建て、仏教を保護。さらに、603年には朝廷に仕える人材の位を設定(冠位十二階)、604年には十七条憲法、607年には小野妹子を遣隋使として中国大陸(隋王朝)に派遣し、大陸の文化から学ぼうと模索。628年に推古天皇が亡くなるまで36年間、国の基礎作りが進められます。
こちらの記事もおすすめ
聖徳太子(厩戸皇子)~古代の政治争いの中で「和」を貴んだ男の光と影の人生~ – Rinto~凛と~
蘇我氏ムカつく!もう我慢できない!乙巳の変から大化の改新へ
推古天皇が亡くなる少し前、621年に聖徳太子が亡くなり、626年には蘇我馬子がこの世を去ります。
これを境に、蘇我氏が再び勢力拡大。蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が台頭します。二人は舒明天皇を擁立し、朝廷で好き放題。残念ながら、聖徳太子や推古天皇のように、有力豪族一強にならないよう信念をもって政治に取り組む熱い魂を持つ人物は見当たりません。蘇我氏は敵対する勢力を次々排除して我が世の春を謳歌します。
そしてとうとう、舒明天皇の対立候補だった山背大兄皇子(聖徳太子の息子)を殺害されるというとんでもない事件が発生。首謀者はもちろん、蘇我親子です。
こんな状況を放置していたら、国は崩壊してしまいます。表立って言うと殺されてしまいかねませんが、みんなの怒りは頂点に達していました。
そこで立ち上がったのが、舒明天皇の子供にして飛鳥時代のヒーロー・中大兄皇子です。
645年、中大兄皇子は朝廷の役人を務めていた中臣鎌足とともに蘇我入鹿の暗殺を決行(乙巳の変・いっしのへん)。蘇我蝦夷も死に追いやり、蘇我氏の方々を食い止めます。
新しく即位した孝徳天皇は「大化」という」元号を制定し、崩れ切った世の中を立て直すべく改革を推進。これが世にいう「大化の改新」。朝廷内の立て直しから周辺地域の役人制度や調査に至るまで、日本の国づくりは再び動き出したのです。
こちらの記事もおすすめ
「大化の改新」で目指した中央集権国家~乙巳の変から改革内容まで~ – Rinto~凛と~
白村江の戦い・国外も国内も大揺れ・大ピンチ!
孝徳天皇が亡くなった後、後継に中大兄皇子を推す声が高まりますが、なぜか中大兄皇子はすぐには即位せず、母親を天皇にして(斉明天皇)、傍らで実務を遂行。現場重視の人だったのかもしれません。
中大兄皇子は国内の政治の安定を図ると同時に、国外、つまり朝鮮半島の情勢にも目を向けていました。
この当時の朝鮮半島は、北の広大な土地を収める高句麗と、南端の百済、新羅という3つの国が対立。さらに、中国大陸には唐という大国が控えていました。663年、日本は百済に援軍を送るべく、大軍を率いて朝鮮半島を目指しますが、白村江というところで開戦となるやいなや、新羅と唐の連合軍に惨敗してしまいます。
これはやばい!唐が日本に攻めてくるかもしれない!日本最大のピンチです。
焦った中大兄皇子、慌てて、朝鮮半島から船がやってくるとしたら真っ先に上陸するであろう福岡県の山間に大宰府を設け、水城(大宰府を守るための城壁)を建設。九州の海側からの侵入に対する防備を固めます。
結果的に、唐が攻めてくることはありませんでしたが、その後も、対馬や讃岐などに城を築くなど、各所の防衛施設の整備が盛んに行われるようになりました。
斉明天皇は661年にこの世を去っていましたが、中大兄皇子は天皇にならずしばらくそのままの状態で政務を取り仕切っていました。そして668年、白村江の戦いから5年ほど経ってから、ようやく天皇に即位します(天智天皇)。
天智天皇は即位後も様々な国内政策を推し進め、新しい国づくりに尽力します。
こちらの記事もおすすめ
日本が超大国である唐との戦いに敗れ、国家存亡の危機に陥った白村江の戦いとは – Rinto~凛と~
天智天皇の後継者は?壬申の乱・そして奈良時代へ
大化の改新を成し遂げて蘇我氏を黙らせた飛鳥時代のスーパースター・中大兄皇子こと天智天皇が亡くなると、再び不穏な空気が漂い始めます。後継争いとして、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)が争いを始めたのです。
古代日本最大の乱ともいわれるこの争いは「壬申の乱(じんしんのらん)」と呼ばれ、様々な人を巻き込んでの大騒動に発展。結果的に大海人皇子が勝利し、天武天皇となりました。
あまりに大きかった壬申の乱。数万人がかかわったとも言われており、それまで権力を持っていた豪族たちもすっかり弱体化。皮肉なことに、天皇の力が強まって中央集権型の政治体制が整っていきます。
歴史書(古事記や日本書紀など)が編纂され始めたのもこのころです。また、このころ「日本」という国の呼び方が誕生したと考えられています。
天武天皇が亡くなると、皇后だった持統天皇が即位。これまで、宮(天皇の住居)は天皇が代わるたびに転々としていましたが、持統天皇のときにはじめて、藤原京と呼ばれる本格的な都が築かれました。唐の都・長安をお手本にしたものと考えられています。
持統天皇の孫の文武天皇の即位時代の701年には大宝律令が制定され、古代日本における中央集権支配体制が完成。土地や税制に関しても繰り返し改革が行われ、国家としての形が確立していきます。
そして文武天皇の母親の元明天皇の即位時代に、藤原京から平城京へ遷都(710年)。奈良時代が始まるのです。
飛鳥時代はいつまで?という疑問については、710年に奈良の平城京に都が移されるまでを飛鳥時代とする説が一般的ですが、645年の大化の改新を境に白鳳時代という時代区分を用いるべき、という見方も。また、694年に藤原京へ都を移したときまでを飛鳥時代とする説もあります。
こちらの記事もおすすめ
天武天皇即位のきっかけとなった「壬申の乱」を詳しく解説! – Rinto~凛と~