平安時代日本の歴史

5分でわかる日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳院)生涯や理由をわかりやすく解説

夏になると、ホラーや怪談話がメディアを賑わせてきますよね。もはや季節の風物詩ともなった「コワイ話」なのですが、現代の私たちが考えているより、昔の人はそれこそ真剣に悪霊や怨霊などを恐れていたようで、悪いことが起こったり、人が病気で亡くなったりすると、すぐに悪霊や怨霊の類の仕業だと断定してたようです。特に平安時代はその傾向が顕著で、戦争などがあまり起こらない比較的平和な時代だったにも関わらず、恨みや嫉妬などを抱きながら非業の死を遂げた霊魂をことさらに恐れる風潮が高かったのです。「日本三大怨霊」をご紹介するにあたり、当時の人々が、いかに怨霊を恐れていたのか?そして怨霊を防ぐためにどのような対策法を取っていたのか?そして日本三大怨霊とされる菅原道真・平将門・崇徳院がどうして怨霊と呼ばれるのか?ちょっと考えてみたいと思います。

1.そもそも怨霊とはどんな存在?

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かなりオカルトな話となりますが、日本人の死生感というものは、霊魂の存在失くしては語ることはできないでしょう。霊魂があるから心霊写真が存在できますし、コワイ話も成り立つわけです。それはまさに日本人独特の感性だといっても良いかと思います。まずは「怨霊とはそもそも何?」ということから考えていきましょう。

1-1.きちんと成仏することが霊の役割

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By 月岡芳年Walters Art Museum: Home page  Info about artwork, パブリック・ドメイン, Link

日本人は世界でも類を見ないほど、霊魂に対して様々な見識を持っている民族だといえるでしょう。人が亡くなれば、その霊魂は紆余曲折を経て成仏し、そして再び生まれ変わってくるという輪廻転生は誰しもがご存知のはず。

また、霊魂の種類も実に様々です。まさに「日本人は幽霊が大好き」と表現していいかも知れませんね。

大きく分ければ下記のように3つの種類に分けられることになりますが、ふつう人が亡くなると近親者によって法要が営まれ、きちんと成仏して極楽往生できるようにしてもらえるものですよね。

ですから「成仏」することが霊魂の役割であるといえます。もし成仏できなければ、いつまでもこの世を彷徨ってしまい、生きている人間に災いをなすことになるでしょう。

※主な霊の種類とは?

浮遊霊
事故などで亡くなり、自分が死んでいるのもわからないまま彷徨っている霊魂。

地縛霊
殺されたり、この世に深い恨みを残して彷徨い、成仏できない霊魂

成仏
亡くなってから、この世に未練を残さずに仏となった霊魂。

1-2.悪霊とは「成仏」という義務を放棄した存在

日本人が霊を見た場合、肉体は滅んでも霊魂が死ぬことはなく、悟りを開いて成仏し、再び生まれ変わることが霊魂の定められた役目だとされています。

しかし、いつまでも成仏しようとせず、この世に未練を抱くどころか怨みを持っている異形の霊魂こそ、これは怨霊というべきものでしょう。

仏の道で定められた「成仏」という義務を逸脱してまで、この世に害をなす存在こそが平安時代の人々を恐れさせた異形の存在だったのです。

1-3.仏教が伝わる以前の怨霊

輪廻転生や成仏という死生観が日本に生まれたのは、やはり仏教の伝来を待たねばなりません。ではそれ以前の時代に怨霊が生まれなかったのか?といわれればそんなことはありません。

自然崇拝(シャーマニズム)から生まれた日本古来の神道は、祈祷や呪術に代表される祖先崇拝を行っていました。「血縁的に近い先祖霊を崇拝し、先祖霊を地上に招き呼び寄せ、祭りを執り行う」ことは、先祖とのつながりを重視する人々にとって何より大事なことだったのです。

仏教伝来以前の日本では、「先祖を大事にしない」ことが悪であり、それが怨霊を発生させる源だと考えられていました。大事にされない先祖霊が怒り、天変地異や疫病を発生させるものだということですね。

1-4.古代の怨霊の実例

3世紀頃、崇神天皇が即位してまもなく疫病が流行り、多くの人が死んでいったので、天皇はこれを鎮めるべく手を尽くしましたが、疫病は一向に治まる様子を見せません。

そこで占ってみると、この疫病は大物主命(おおものぬしのみこと)のタタリと判明したため、大物主命の子孫だという意富多多泥古(太田田根子)を探し出して三輪山で祀らせたところ、ようやく治まったということです。

この場合、自分の祭祀を子孫たちがしてくれないから、怒って怨霊となったわけですが、子孫に対してでなく、不特定多数の人間たちに対してタタリを起こしたというところが、怨霊の恐ろしさなのでしょうか。

聖徳太子が怨霊となったことも同様の理由が考えられます。太子の死後に、子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が蘇我氏によって殺され、太子の祭祀を務める者が誰もいなくなりました。そこで怒った太子の霊魂は怨霊となり、最終的には蘇我氏を滅亡させたといわれていますね。

1-5.個人的な恨みを持つようになった怨霊

日本に仏教が伝来すると、「神仏習合」といわれる、従来の【神】と【仏】が融合した新しい宗教観が生まれました。それと共に日本人の死生観も変換の局面を迎えます。

先祖の御霊を祀りつつ、輪廻転生を願うという一見矛盾したような考え方が日本人の常識となったのです。そういったパラドックスをはらんだ日本人の宗教観は、恐ろしい怨霊の価値観すら変えることになりました。

奈良時代になると「先祖を大事にしない」ことよりも、「きちんと成仏しない」ことのほうが悪だとされ、怨霊の恨みは「大切にされない先祖の恨み」なのではなく、より「個人的な恨み」へと変貌を遂げることになりました。

そして怨霊の多くは、「成仏できないほどの強い恨みを残した存在」という図式が出来上がるのです。

1-6.政争に敗れて恨みをもった怨霊たち

奈良時代初め、藤原氏四兄弟の讒言によって自害させられた長屋王が怨霊となり、四兄弟を呪い殺した逸話や、藤原式家の陰謀によって謀反の罪を着せられ、母と共に幽閉されて暗殺され、のちに怨霊となって皇室を悩ませた他戸親王の話など、それこそ枚挙に暇がなくなりますね。

極め付きは早良親王の怨霊が挙げられるでしょう。藤原種継暗殺事件に連座して皇太子を廃され、絶食のうえ憤死した彼は怨霊となり、洪水や疫病など数多の災厄を引き起こしました。

奈良時代~平安時代にかけて藤原氏の勢力が強大なものになると、政争も激化の一途をたどります。藤原氏に追い落とされた政敵が怨みを持ったまま亡くなり、怨霊となって人々を悩ませるという図式は、疫病や天変地異など理解できない超自然的な災厄への理由付けとなりました。「怨霊のせいで良くないことが起こるのだ」と。

1-7.藤原氏にとって「怨霊」は都合の良い存在だった?

また政治の実権を握っていた藤原氏にとっても、「怨霊の存在」は社会を律するうえで好都合なものだったのかも知れません。

たしかに歴代当主は個人的に怨霊を恐れていたとは思いますが、怨霊を鎮めるために数多くの寺社を建立して、藤原氏の権勢を世に示し、また御霊会(ごりょうえ)などの鎮魂式を頻繁に執り行うことで、世情の社会不安を取り除くことに成功していたからです。

当時の平安京が魑魅魍魎渦巻く魔界都市だったという伝説もありますが、逆に考えれば人為的に誕生したバチカンのような鎮魂都市としての側面もあったということでしょう。

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明石則実