室町時代日本の歴史

東山文化を代表する名刹、銀閣寺についてわかりやすく解説

京都市の東山に位置する慈照寺は、銀閣寺と通称される名刹。足利義満が京都北山に建てた金閣寺と同じく、臨済宗相国寺派の寺院です。足利義政が銀閣寺を建てたころ、室町幕府は混乱状態にありました。義政は政治よりも芸術の世界に強い関心を持ち、芸術の振興に力を入れます。今回は銀閣寺こと慈照寺を建てた足利義政と銀閣寺や銀閣寺に代表される東山文化についてわかりやすく解説します。

銀閣寺を建てた足利義政

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足利義政は室町幕府8代目の将軍として政治を行っていました。しかし、当時の室町幕府は守護大名たちの力を抑えることができなかったため義政は政治面で苦労します。将軍家や有力守護大名たちの争いによって起きた応仁の乱は11年にわたって続き、京の町は焼け野原になってしまいました。政治に希望を失った義政は銀閣寺で芸事に没入してしまいます。

8代将軍足利義政時代のプロフィール

足利義政は1436年に6代将軍足利義教の子として生まれます。1441年に嘉吉の乱で父が殺され、1443年に兄が病死したため、義政が将軍家を継ぐことになりました。

1455年に将軍家と縁の深い日野家の日野富子と結婚。1459年、室町幕府の象徴的な建物である室町殿(3代将軍足利義満が建てた屋敷)に移って積極的に政治に取り組む姿勢を見せます。

このころ、関東では享徳の乱とよばれる争いが起きていました。義政は異母兄の足利政知を関東統治の役職である鎌倉公方に任命し関東に差し向けましたが、政知は関東の混乱を押さることができず、鎌倉にすら入ることができません。室町幕府の力がかなり落ちていたことがうかがえますね。

その後、守護大名たちの争いは激しさを増し、義政は政治への意欲を失いました。1473年、足利義政は将軍職を子の義尚に譲って隠居。京都東山に東山山荘をつくって、芸術活動に没頭します。1490年、義政は銀閣の完成を待たずにこの世を去りました。享年55歳。

京の都を戦火で焼き尽くした応仁の乱

日野富子と結婚して4年後の1459年、富子との間に授かった最初の子供が亡くなっています。その5年後、僧侶となっていた弟を呼び戻し、武士の地位を回復させて後継者と定めました。

この時、富子は24歳でしたのでまだまだ子供が生まれる可能性は高かったのですが、あえて弟を後継者に定めた理由は何だったのでしょう。もしかしたら、義政は政治に嫌気がさし始めていたのかもしれません。義政は、後継者を早めに決めて好きな芸術活動に没頭したかったのかもしれませんね。

しかし、皮肉なことに1465年に富子との間に男子が生まれます。これにより、次の後継者をめぐって弟の義視と子の義尚・日野富子との間で争いが起きてしまいました。

この争いに、有力守護大名である山名宗全細川勝元が介入することで争いは過熱化。ついに1467年、応仁の乱が始まってしまいます。乱は11年にわたって続き、京の都は焼け野原となってしまいました。

芸事に没入した足利義政

応仁の乱が始まって6年後の1473年、応仁の乱の主要人物であった東軍の細川勝元と西軍の山名宗全がともに死去。義政自身も将軍職を子の義尚に譲って隠居しました。

1476年、室町殿(花の御所)が戦火で炎上。義政は小川殿という屋敷に避難。1477年、西軍の主力を率いていた大内政弘が京都から撤退したことでようやく応仁の乱が終わります。

乱が終わっても義政の関心は芸術の世界にありました。1482年に東山山荘の建設を開始します。政治の中枢から距離を置いた義政は、庭師の善阿弥や絵師の狩野正信土佐光信、能楽師の音阿弥らを召し抱え、芸術活動を支援しました。

義政は東山山荘で自分の考える「美」を徹底的に追求します。政治家としてはなかなか思い通りの政治ができなかった義政ですが、芸術活動の保護者・理解者としては一流の鑑識眼を持っていました。1490年、義政は彼の美の結晶ともいえる銀閣完成を待たずにこの世を去ります。

義政が丹精込めて造営した銀閣寺の特色

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慈照寺の建物は戦火によって焼失したものが多いですが、銀閣とよばれる観音殿と東求堂は現存しています。観音殿も東求堂も義政が丹精込めて作り上げた東山文化の傑作でした。慈照寺にはこの二つの建物だけではなく、江戸時代に改修された立派な庭もあります。義政が作り上げた「わび」「さび」の最高傑作ともいえる銀閣を紹介しましょう。

金閣の舎利殿と対比される銀閣の観音殿

歴史の教科書などで銀閣として紹介されている建物は慈照寺の観音殿。観音殿は2層にわかれています。1階は「心空殿」、2階は「潮音閣」と名づけられました。1階の「心空殿」は住宅風のつくり。「心空殿」は、書院と呼ばれる書斎と今を兼ねた部屋が中心となったつくりのため、のちに書院造と呼ばれる建築様式とされます。

2階の「潮音閣」は禅宗寺院の形式で立てられました。禅寺に良く見られる「花頭窓」が取り付けられているのが一番の特徴です。禅寺風の建築らしく、2階には観音菩薩が安置されました。

観音殿が銀閣と呼ばれるのは、足利義満が建てた鹿苑寺金閣と対比してのことで、銀箔が貼られていたからではありません。近年の調査でも、最初から黒漆塗りの建物だったことがわかっています。

現存するもう一つの建物、東求堂

義政時代の建物で、もう一つ現存しているのが東求堂です。東求堂は義政が日ごろ拝んでいる仏像を安置するための持仏堂として建てられました。仏間には阿弥陀如来が安置されます。

東求堂の中には、義政の書斎がありました。書斎の名は同仁斎。書斎の中には収納するための違棚や机の役割を果たす付書院などがあり、コンパクトで実用的なつくりになっています。

銀閣と呼ばれる観音殿とともに、書院造や現在の和風建築の源流ともいえる建物ですね。政治からも距離を置き、芸術と日々向き合おうとしていた義政は、四畳半の同仁斎でどのようなことをおもっていたのでしょうか。

京都市中から小さな山を隔てた東山の山荘で、プライベート空間である同仁斎にこもった義政にとって、美の追求こそが最大の関心事だったのでしょうね。

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