ヨーロッパの歴史

3分で読める世界三大宗教の教えと成り立ち、エッセンスをダッシュで再確認!

宗教って何なんでしょう?世界情勢や歴史を紐解く上でどうしても避けて通れない宗教ですが、その中でも大きいのが世界三大宗教のキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教。ぼんやりとしかわからないという人も多いのでは?グローバリズムの現代において知っておきたい世界三大宗教の成り立ちや教えについて、開祖・教祖の教えから歴史までわかりやすく解説します。

愛と赦しのキリスト教、くり返す組織改革のなかで

image by iStockphoto

まずは三大宗教の中で日本人には一番おなじみの深い、世界最大の宗教であるキリスト教から。聖母マリアから十字軍まで、ネガティブにもポジティブにもイメージが多彩なキリスト教。ですがカトリックとプロテスタントの違いや、正教会の存在など知らないことも多いはず。歴史の中で改革されていくキリスト教の正体に迫りましょう。

愛と平和と赦し、キリストの教え

キリスト教の教えをまとめるととてもシンプル。「隣人を愛し、人を赦す」ことです。今のパレスチナの一地方ナザレに大工の息子として生まれたイエスは、ハンセン病者や娼婦など、社会的弱者に寄り添いながら伝道活動を続けました。

右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい心の貧しい者は幸いである明日のことを思いわずらうな、と教えたイエス・キリスト。しかし当局者に目をつけられ、エルサレムの街で祭りの日、十字架に磔(はりつけ)にされ処刑されてしまいます。この磔刑で「すべての原罪はイエス・キリストが犠牲となって背負ったために、人間は救われた」というのがキリスト教の基本理念です。キリストはこの処刑の3日後に復活して弟子たちの前にあらわれ、父なる神のもとへ昇天しました。

キリストの教えは後に弟子たちにより新約聖書にまとめられます。イエス・キリスト以前の預言者たちの教えが記された旧約聖書(ユダヤ教の聖典としての呼び方は「タナハ」)と新約聖書、この2つが基本の聖典です。

くりかえす組織改革!教会大分裂から宗教革命まで

教祖の死後はかならず派閥争いが起こりますが、それが特に多彩なのがキリスト教。聖書の解釈や組織改革にともなって多くの教派が生まれました。11世紀には聖母マリアに関する見解などをめぐり、カトリック(西方教会)と正教会(東方教会)の2大教派がお互いを破門(教会大分裂・大シスマ)。教会大分裂ののち東方教会=正教会は主にギリシャやロシアなど東ヨーロッパを広まっていきました。

歴史の授業でおなじみなのは西方教会=カトリック。西ヨーロッパは魔女狩りや異端審問が繰り広げられる暗黒の中世を経て、強い権力を持ちすぎた聖職者の堕落が目に余るようになります。それに激怒したマルティン・ルターが主導者となり、プロテスタントの諸宗派が生まれだしたのが16世紀ごろ。弱ったカトリックを盛り返すために信徒の「新規獲得」として海を渡ったのが、教科書でもおなじみのフランシスコ・ザビエルたちイエズス会です。「世界に福音を述べ伝える」ためにはるばる海を渡ったカトリックの組織的な運動は功を奏して、南アメリカの多くの国民がカトリック教徒。2013年にはアルゼンチンから新教皇としてフランシスコ教皇が誕生しています。

カトリック、プロテスタント、正教会の和解と現在

image by iStockphoto

中世に双方を破門したカトリックと正教会。成立以来教えの面で反目しあっていたプロテスタント。和解したのはつい最近、20世紀後半です。カトリックの長、1972年にローマ教皇となったヨハネ・パウロ二世はプロテスタントの指導者や正教会の大司教と対話したり、ユダヤ教のシナゴーグにおもむいたり、日本でも仏教・天台宗の僧侶と対談したり八面六臂の大活躍。以前は非クリスチャンに対して排他的であったキリスト教全体が、平和と多様性を重んじる路線をとる方向に進んでいます。インドのスラムで徹底して貧しい人々に寄り添ったマザー・テレサや「空飛ぶ教皇」と呼ばれたヨハネ・パウロ二世は、今のキリスト教や信者たちの心ににとって非常に大きい存在です。

ここで豆知識。カトリックと正教会の聖職者の呼び方は「神父」プロテスタント諸宗派は「牧師」。間違わないように気をつけましょう。プロテスタントの聖職者は結婚OK、カトリックは「神さまと結婚」するため一生純潔です。正教会は条件付きで結婚が許可されています。またプロテスタントでは聖母マリア信仰はありません。細かく違うんですね。

対立が拡大のカギだった?イスラム教の成立と教え

image by iStockphoto

キリスト教に次いで、世界で2番目に信者人口多いイスラム教。2018年現在、16億人以上がムスリム(イスラム教信者)であると言われています。預言者ムハンマドが唯一神アッラーからの啓示を受けて成立したイスラム教、というのはぼんやりとわかるけど……。わずか200人の信者から一大帝国まで築いてしまったイスラム教の成立ちと教えをご紹介しましょう。

イスラム教の成り立ちと歴史ダイジェスト

7世紀、アラビア半島の一商人だったムハンマドは唯一神アッラーからの啓示を受けます。旧約聖書のアブラハム、モーセ、新約聖書のイエス・キリストら預言者の流れをくみ、完全なものとする最後の預言者としてムハンマドは神に選ばれたのでした。

当初家族や一部の地元民のしか信者がいなかったイスラム教。それが後に「帝国」になるまで拡大したのは、ムハンマドが政治家としても軍事指導者としても非常に有能だったから。当初拠点にしていたメッカで迫害を受け、メディナに移ったムハンマドらは宗教コミュニティを作って生活していましたが、周辺のユダヤ人と対立します。この対立はユダヤ人・アラブ人対イスラム教徒の、たびかさなる戦闘の開始でもありました。繰り返した戦闘の結果、次第にアラブ人たちを支配下におさめていったムハンマド。当時の大国ササン朝ペルシアが弱体化していたことも重なり、イスラム教は支配に下った地域を主にあっという間に広まります。632年にムハンマドが死去するまでにはメッカにいた200人の信者は、軍隊と国家を形成するまでの一大宗教に発展していました。

イスラム帝国成立、シーア派とスンニ派の二大教派の誕生

ムハンマドの死後もイスラム教の勢いは止まりません。当時東ローマの領土だったシリアや、大国ササン朝ペルシアに喧嘩をふっかけます。弱体化していた両者はイスラム教の軍門に下りました。中東を獲得したイスラム教はさらにインドへ進出。最終的にはイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)まで至り、一大帝国を形成しました。が、そんな中で派閥争いが起こります。預言者ムハンマドの後継として作られた宗教指導者・カリフのポジションをめぐって立場が分かれたのです。

シーア派は7代カリフ・ムハンマド・アリー子孫を代々トップとし、指導者としてそれに従うという仕組み。こちらはムスリムの中でも少数派にあたります。一方のスンニ派は多数派。「ムハンマド以来の慣習(スンナ、スンニ)に従う者」という意味です。スンニ派の人びとがよりどころとするのは、預言者ムハンマドが行った言葉や行い(言行=ハディース)。「世襲のトップ=指導者(イマーム)がいるほうがシーア派で少数派、いないのがスンニ派で多数派」とおぼえておきましょう。

次のページを読む
1 2
Share: