幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

明治維新への道筋を開いた「孝明天皇」とは?わかりやすく解説

攘夷は主張しても幕府との対立は避けたかった孝明天皇

孝明天皇は、攘夷は望んでいたものの、幕府と喧嘩をするつもりはなく、幕府中心に外国の支配を除去することを望んでいました。そのために、孝明天皇は、幕府から派遣された京都守護の会津藩主松平容保(かたもり)やこの当時は幕府に協力姿勢を示していた島津藩主の父である島津久光を信頼し、頼っていたのです。

孝明天皇の妹和宮内親王の降嫁による公武合体

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また、大老井伊直弼が暗殺された後の幕府中心になっていた安藤信正は、朝廷との関係を強めて幕府の威信を取り戻そうと朝廷に公武合体を持ちかけます。幕府と喧嘩したくないと思っていた孝明天皇もこの公武合体に乗りました。すでに有栖川宮との婚儀が決まっていた妹の和宮内親王を徳川将軍家茂に降嫁させることを決意したのです。それによって朝廷と幕府との融和を図ろうとされました。これによって、京都市中を京都守護職配下の新選組が守って、尊皇攘夷論の志士を取り締まり、孝明天皇は薩摩藩が護衛するようになったのです。

婚約を取り消された有栖川宮は怒り、討幕の戊辰戦争では、新政府軍の総大将になっています。

孝明天皇を守る幕府と薩摩藩は蛤御門の変で攘夷強固派の長州を退ける

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このような孝明天皇と京都の状況によって、京都での立場が無くなったのが長州藩でした。長州藩内では、幕府恭順派と反幕府派が権力争いを繰り広げており、藩主の毛利敬親はどちらが権力を握っても自分の意見は言わず、「そうせい」と言うのみです。

長州藩では、松下村塾で多くの優秀な門下生を排出した吉田松蔭が安政の大獄で処刑されており、門下生は幕府を恨み、久坂玄瑞などは尊皇攘夷の志士として京都に来ていました。桂小五郎(後の木戸孝允)や久坂玄瑞などと島津藩の突出藩士を中心に御所の孝明天皇を奪って、新しい体制を築こうとする動きをみせたのです。しかし、事前に島津久光に感づかれて突出薩摩藩士たちは同じ薩摩藩士たちに惨殺されてしまいます。これが寺田屋事件でした。

蛤御門の変で敗れた長州は京都を追い出された

それ以降、長州藩士たちは京都から追い出されていまい、それに怒った長州藩から多くの若い藩士たちが上京し、皇居を攻撃しようとします。そのため、薩摩藩、会津藩とついに蛤御門の変(禁門の変ともいう)の戦いが起こりました。この蛤御門の変で敗れ、京都から追放された長州の志士たちは、長州に戻りますが、すでに藩の実権を幕府恭順派に握られていて謹慎させられます。逆に、勝利した幕府は、強気になり、長州征伐にかかるようになったのです。

退けられて岩倉村に蟄居させられた岩倉具視

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一方、孝明天皇の周辺にいた公家たちも京都から追放されて長州藩に身を寄せますが、藩の実権を幕府恭順派が握っていたため、悲惨な思いをします。これが知られる七卿落ちです。しかし、この中にいた三条実美などは、明治維新後に太政大臣になっていました。また、当時孝明天皇の信頼を得ていた下級公家の岩倉具視は、退けられ、生まれた岩倉村に蟄居させられてしまいます。

孝明天皇の逝去で形勢逆転

そして、攘夷はでできなかったものの、孝明天皇の幕府との協力体制をとる意思によって幕府では一橋慶喜が台頭し、長州征伐など、幕府の威信回復に強権を振るうようになります。しかし、それは幕府の中で中心的役割を果たしたいという島津久光とは距離を生じました。そのため、西郷隆盛や大久保利道の反幕府派と歩調を合わせるようになり、坂本龍馬の仲介があって薩長連合が成立してしまいます。その結果、幕府の第二次長州征伐は失敗してしまったのです。

そしてその間に、大きな転換点が生まれます。すなわち、幕府との協調体制を望んでいた孝明天皇が崩御されたのです。天皇に即位された明治天皇はまだ若く、朝廷に復帰していた岩倉具視が側に控えていました。

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