- 1.中岡慎太郎の生い立ち
- 1-1中岡慎太郎の誕生
- 1-2神童と呼ばれる慎太郎
- 2.青年期の中岡慎太郎
- 2-1大庄屋を継ぎ結婚す
- 2-2見習でも業績は一流
- 2-3土佐勤王党に加盟する
- 2-4勤王党参政を暗殺す
- 3.公武合体派の台頭と脱藩
- 3-1龍馬は脱藩。慎太郎は?
- 3-2尊攘派の受難
- 4.長州藩の駒となる
- 4-1長州の一員となる
- 4-2禁門の変に参加する
- 5.慎太郎の栄華と横死
- 5-1薩長同盟の志を継ぐ
- 5-2薩長同盟成立
- 5-3陸援隊を組織する
- 5-4薩土盟約締結
- 5-5龍馬と共に暗殺される
- 尊王攘夷に生涯を賭け堅く世直しを誓った中岡慎太郎は、新しい日本を見ずに散った幕末志士
この記事の目次
1.中岡慎太郎の生い立ち
Yanajin – Yanajin, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、戦争直後で犬猿の仲だった薩摩と長州を和解させ「薩長同盟」実現のため、時代を先読みし実のある活躍をした真の立役者です。三条実美などの公家たちを仲間に引き入れ、実質的な貢献をしたのに、幕末スター坂本龍馬の陰に隠れちゃった残念な攘夷派志士。本当はこの人こそが真の英雄的存在の中岡慎太郎の生い立ちを見てみましょう。
1-1中岡慎太郎の誕生
中岡慎太郎は、土佐国の東部に位置する、安芸郡北川郷柏木村(現:高知県安芸郡北川村柏木)の大庄屋で、58歳の小傳次(こでんじ)と34歳の丑(ウシ)の長男として、天保9(1838)年4月13日に誕生しました。この時、坂本龍馬は3歳で、中岡より2つ年上です。
幼名は福太郎といい、諱は道正。光次を経て慎太郎とします。号は遠山や迂山で、青年期は石川清之介と変称しており、坂本龍馬からもこの名で呼ばれました。3歳の時の病で名前を光次と改め、この頃父より習字の手習いを受け始めます。大庄屋という村役人の父の教育は、「衆に勝れ!」といわれ、躾も大変厳しいものだったようです。
1-2神童と呼ばれる慎太郎
Hmori1960.earthbound – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
4歳には禅宗瑞応寺末寺で、万年山松林寺の禅定和尚から読書を学びます。この頃から、神童と噂されており、長となる人と期待されていたのです。彼の生家は、発見された見取り図を基に北川村柏木に復元され、松林寺の境内には遺髪が埋葬されています。
7歳からは、下男を供に付け漢籍を読みながら険しい山道を2時間かけて、隣村の漢方医島村岱作の塾に通い四書五経を学びました。山越え通学は健康と健脚、先で優れた論策を記す糧となります。14歳の時には、島村塾で代講を務めるほどの秀才でした。同年、田野郡校へ進みます。
ちょっと雑学
慎太郎の神童にまつわる村の言い伝えがあります。いつものように、漢籍を読みながらの帰宅途中に、村の子供が悪ふざけをし、縄に牛の糞をぬり通り道に張っていました。縄の前で立ち止まり、「お主ら何をするか!」と一喝。驚いた子供たちは一瞬で逃げ去ったとか。それを見ていた村人たちは、「偉うなる人は、子供の頃から違うもんだ。」と話したようです。
2.青年期の中岡慎太郎
「人こそ国の宝」との信念を生涯貫いた慎太郎は、師の作った土佐勤王党に加盟し五十人組を結成しました。青年期は病に倒れた父の大庄屋を手伝いながら、政治に目覚め幕末志士の道を歩みはじめます。村人たちの安寧を願う好青年だったようです。それでは、慎太郎の青年期をご紹介しましょう。
2-1大庄屋を継ぎ結婚す
安政2年には、高知城下新町田淵にある小野派一刀流免許皆伝の武市瑞山(半平太)の道場に入門し龍馬と出会います。江ノ口の間崎塾で経史を、また竹村東野塾で南学・兵学で習得するなど将来に向け様々なことを学んだようです。
安政3年の下田黒船来航による日米修好通商条約締結など、この頃は幕末非常の国際的な事件が頻発していました。安政3年5月19歳の慎太郎は、高島流西洋砲術家吉村謙次郎に入門します。しかし、秋になり父の老症で、故郷の柏木に帰郷したのです。20歳で父の決めた隣村の庄屋利岡彦次郎の長女かねと結婚します。
2-2見習でも業績は一流
里正見習という立場ですが、村の政には精力的に自彊します。安政5(1858)年コロリの大流行や正月早々に大地震がおこり、村人たちの生活は困窮し飢餓に陥ったのです。
慎太郎は、震災を草鞋がけで隈なく巡視し、率先して被害の調査をします。飢えた村民たちを見た慎太郎は、中岡家所有の山林、田畑を抵当に、500貫の薩摩芋を買い集め窮民に配ったのです。土佐藩家老宅の門の前に夜通し座り込み官庫から食料をもらい、土佐藩から800両を借りることにも成功します。
更に村の復興策を立て、田畑の開墾や高知の作物の優良品種を無料で配布し栽培させたのです。そして山林の伐採や植林に力を入れます。植林では実益を重視し、蝋が取れる黄櫨や塩の代わりにゆずを推奨しました。現在も烏ヶ森や上杉などで、「光次の並木」と称される植林が残っています。被災体験から、共同倉庫に食物を貯蔵することも始めました。
現在も柏木では、慎太郎が始動した壮麗な美田を見られます。慎太郎はこの災害を期に、幕政に疑問を抱き、日本を変えなくてはと強く感じたようです。