大正日本の歴史明治昭和

1920年代の幣原喜重郎の協調外交とは?これによってもたらされたものとは?

日本は、明治維新以来発展を遂げ、第一次世界大戦が終わってからは、世界でも認められるアジアの先進国となって、イギリス、アメリカなどから警戒される存在になっていました。そして、1920年代には日本の軍事的発展を抑えようと、アメリカとイギリスは強調して日本の軍備拡張を抑える動きに出ています。その動きに対して、日本では幣原喜重郎が外務大臣になり、欧米との協調外交を展開し、平穏な1920年代をもたらしました。 しかし、それは陸軍、海軍の不満を鬱積させ、1930年代の陸軍による暴走をもたらしたとも言えるのです。 この幣原喜重郎の協調外交とはどのようなものであり、日本にどのような事態をもたらしたのかを解説します。

幣原喜重郎の協調外交とは

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日本は、第一次世界大戦後、日英同盟が破棄され、イギリスやアメリカから警戒されて軍縮会議などで軍備拡大を抑えられ、中国への進出も現状維持を約束されられてしまいます。それに対して、当時日本政府の外交を任せられた幣原喜重郎外務大臣は、欧米諸国との協調外交を主張して、それらの要求をのむことで、和平を実現しました。

それに対して、もともと中国での勢力拡大を図っていた陸軍や、会議で戦艦などの艦船の拡張を抑制された海軍は、不満を募らせていったのです。その結果、世界恐慌が日本にも波及し、国民生活が困窮すると、国民の政府に対する不満を利用した軍部の政治介入が一気に進むことになりました。軍国主義化への道、戦争への道をたどってしまいます。

このように、幣原外交によって1920年代は比較的平穏な時代を築くことができたものの、結果的には経済要因も加わってその協調外交は破綻することになったのです。

幣原喜重郎の協調外交への背景

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幣原喜重郎の協調外交は、第一次世界大戦後から始まります。アメリカ、イギリスの日本に対する警戒感が強くなり、経済力が高くなったとは言え、それに対抗するだけの力はまだなかったからです。なぜ、アメリカ、イギリスは日本に対する警戒感を強めていったのかを見てみましょう。

中国進出に遅れた米国の日本に対する不満

アメリカは、ペリー来航、ハリスの領事就任などによって日本の開国に対して強い影響を与えましたが、当時からアメリカ国内では南北対立が強まり、南北戦争が始まりました。そのために、19世紀後半にはあまり海外進出を果たすことができなかったのです。その結果、広い国土と人口を持つ中国への進出はほかの欧州列強に比べて遅れていました。当時は、まだ、世界一の経済大国はイギリスであり、開国後の日本の貿易でもイギリスのウエートは大きくなっています。

その後、日清戦争に勝ち、さらに日露戦争でも勝って朝鮮半島だけにとどまらず、中国東北部への進出を強める日本に対しては、アメリカは強い警戒感を持っていたのです。そのため、第一次世界大戦中には、石井・ランシング協定といって、アメリカのランシング国務長官が日本の石井外務大臣と会談しています。中国での現状の権益を認め、中国の門戸開放(経済的な進出の解放)を認め合い、日本も現状以上の勢力範囲を広げないように協定を結んだのです。

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