教養歴史

戦いが絶えず幕府権力が比較的弱かった「室町時代」について元予備校講師がわかりやすく解説

今から700年近く前、足利尊氏は京都に室町幕府を開きました。室町時代(むろまちじだい)は四期に区分可能です。第一期が南北朝の争乱の時代。第二期は足利義満のころの室町幕府最盛期。第三期は将軍権威が急落した時代。第四期がいわゆる戦国時代です。今回は、室町幕府の大まかな流れについて、元予備校講師がわかりやすく解説

室町幕府の始まりと南北朝の争乱

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足利尊氏は1336年、後醍醐天皇に対抗するため、大覚寺統の後醍醐天皇と対立していた持明院統の光明天皇を擁立し北朝を開かせます。尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され室町幕府を開きました。後醍醐天皇は京都から吉野に逃れ、自分こそが正当な天皇であるとして北朝と足利尊氏打倒のために執念を燃やします。南朝と北朝の対立は後醍醐天皇や足利尊氏が亡くなっても続きました。

鎌倉幕府の打倒と建武の新政の始まり

1318年、大覚寺統後醍醐天皇が即位しました。大覚寺統とは、亀山天皇の子孫の血統のこと。

1317年に鎌倉幕府は大覚寺統と、後深草天皇の子孫である持明院統が交互に皇位に就くことを定めました。その取り決めに従って後醍醐天皇は即位したのですが、後醍醐天皇は鎌倉幕府が朝廷の人事や天皇の位に干渉するありさまを正したいと考えます。

後醍醐天皇は1324年と1331年に側近とともに討幕の企てをしますがいずれも失敗。幕府は後醍醐天皇を退位させ隠岐に遠島とします。

1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、再び倒幕の兵をあげました。これに対し、鎌倉幕府は討伐軍を派遣します。しかし、討伐軍の司令官だった足利尊氏が後醍醐天皇に帰順。尊氏は六波羅探題を攻め落としました。そのころ、関東でも新田義貞が挙兵。鎌倉を攻撃し北条一族を滅亡させます。

後醍醐天皇は都に入り、幕府が擁立した持明院統の光厳天皇を廃して再び皇位に返り咲きました。そして、天皇中心の国づくりを宣言します。後醍醐天皇が行った政治を建武の新政といいました。

後醍醐天皇と足利尊氏の対立

後醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇や村上天皇が行った天皇親政を政治の理想とします。そのため、幕府や摂政・関白を廃止し、自ら政務を行いました。

特に重要なのは、土地の所有権を認める所領安堵には天皇の綸旨が必要としたことです。これは、鎌倉時代を通じて積み上げられてきた武士の土地所有の原則を無視するものでした。

また、鎌倉幕府打倒の温床についても直接討伐に功績がなかった寺社や貴族が優遇されます。建武の新政が武士の慣習を無視し、恩賞配分が不公正であると感じた武士たちは足利尊氏の下に結集しました。

1335年、鎌倉に下った足利尊氏は後醍醐天皇と対立。兵をひきいて上洛します。これに対し、後醍醐天皇は楠木正成や北畠顕家らに命じて尊氏を討伐させました。一時は劣勢となった尊氏ですが、体勢を立て直し再び上洛。建武政府軍を打ち破って京都を占領しました。

室町幕府の成立と南北朝時代

1336年、足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立します。のちに、光明天皇の朝廷は北朝とよばれました。後醍醐天皇は京都を脱出。奈良県の吉野で自分の皇位の正当性を主張しました。後醍醐天皇の朝廷は南朝とよばれます。

北朝と南朝という二つの朝廷が並立したので、この時代を南北朝時代といいました。

1338年、北朝の光明天皇は尊氏を征夷大将軍に任命。室町幕府がはじまります。室町幕府軍は南朝に対して優位に戦いを展開。徐々に南朝を追い詰めました。

しかし、1350年におきた観応の擾乱により室町幕府が混乱。室町幕府の勢力が二つに分かれ、内乱が泥沼化しました。この状況を利用して南朝は勢いを取り戻します。その結果、南北朝の争乱は長期化しました。

室町幕府の最盛期を現出させた足利義満

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50年近くにわたって続いた南北朝の争乱は室町幕府三代将軍となった足利義満の仲裁によって終息します。義満は有力守護大名を討伐し政権を安定させました。また、義満は中国の明に使者を派遣し、日明貿易を開始します。日明貿易で得た莫大な利益は室町幕府の重要な経済的基盤となりました。

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