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明治時代の一大打ちこわし運動!「廃仏毀釈」をわかりやすく解説!

今ではお寺ブームや仏像ブームなどもあって観光客で賑わっている寺院。生活にも密接に関わっているため、とても近しい存在だと思います。 しかし、明治時代ではそんな寺院を破壊する運動が高まっていき、大量の仏像や寺院が破壊されてしまったのです。 今回はそんな寺院の打ち壊し運動である廃仏毀釈について解説していきたいと思います。

廃仏毀釈って何のこと?

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廃仏毀釈とは、明治時代に行われた仏教関連のものを破壊しつくした事件のことをいいます。ちなみに毀釈は釈迦の教えを壊すという意味があるのです。

廃仏毀釈はいろんな地域で行われており、中国においては3世紀以来行われるようになっていき、道教を重視した唐や宋では仏教が軽視されるようになっていき、以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもちました。

日本においては江戸時代から朱子学が興隆したことでしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に国家神道を推し進める運動と神仏分離が行われたことによって各地で仏像・経巻・仏具の焼却や除去が行なわれるようになりました。

廃仏毀釈が起きた時代背景

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廃仏毀釈は明治の神仏分離令が発令された後に激化されることになりましたが廃仏毀釈を行う土壌が生まれたのは江戸時代と言えます。まずは、廃仏毀釈につながった江戸時代における思想と仏教側への不満という二点を見ていきましょう。

寺請制度等による仏教への不満

江戸時代には宗教の統制のために寺請制度と呼ばれる制度を導入していました。寺請制度とは、いわゆる檀家と寺の関係を正式に決めたもので、寺は檀家を登録していわゆるキリスト教徒ではないということを証明する代わりに、葬式などは基本的にそこの寺を使うことになりました。この寺請制度によって江戸時代には寺と農民はそれまでよりも深くつながるようになっていくようになったのです。

しかし、この寺請制度には少し問題があり、例えば農民などは葬式や法事など様々な場面でお布施という形でお寺へのお金の工面に苦労するなどいろいろ大変な思いをすることもありましたが、その一方でお寺はお布施などでとても潤っており、農民の中には自分は汗水垂らして稼いでいるのに、お寺は楽に金を稼いでいると考える人が多くいて、農民の中にはそのことに不満を持つ人も多くいたそうです

さらに農民だけではなく、神社の神官なども寺などに全ての雑務を押し付けられることもあり、神官などは寺などに不満を持っていた人も多くいました。もちろん。寺の中にはちゃんとしている僧侶もいたとは思いますが、このような格差が起こると不満が起こるのは仕方のないことだと思います。

国学の広がりと仏教の軽視

寺を軽視しすぎる原因として挙げられるのがいわゆる学問でしたがわ、江戸時代にはこれまで寺が基本的に行ってきた学問の分野を一般の人が行なっていくようになり、仏教が入ってくる前にあった日本本来の文化や精神を明らかにしようとする国学が盛んになります。国学の最大の目的は仏教が伝来する前にはあった本当の神道について明らかにするいわゆる復古神道がありました。

特に国学を大成することになる本居宣長の弟子として有名であった平田篤胤という人はこの「日本に古来からある神道、本来の姿の神道」というものを明らかにしようとする神道の研究を行なっていき、復古神道を大成することになる彼の弟子は後の国家神道の樹立に大きな影響をもたらしていきました。

また復古神道以外にも江戸時代中期には水戸学という尊王攘夷思想にもつながる学問が発展していくようになり、日本古来の神道や思想(仏教の影響を受ける前)についての研究を重ねていくことになります。この水戸学はのちの明治維新にかかわる人たちに影響を与えていくようになり、地域によっては水戸学の本拠地である水戸藩のように地域によって神仏分離を進めて行く地域も現れていくようになりました。

廃仏毀釈の始まり

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こうして江戸時代には仏教と神道を分離する動きがちょくちょくおこなわれていくことになるのですが、その廃仏毀釈につながる行動が行われていくようになるのが明治時代の頃でした。明治時代に行なわれていくことになる、廃仏毀釈は後々の汚点となっているのですが、どうして廃仏毀釈が行われていったのかについて見ていきましょう。

神仏分離令の発布

江戸時代が終わり、明治時代が訪れて新政府が発足すると、江戸時代に存在していた復古神道の影響を受けた国学者や神官などの人たちが明治政府に登用されていくことになりました。

なんでいきなり神官を登用して行ったのかというと明治政府は神道を国教とし、祭政一致という方針を取ったからにあります。

この祭政一致は今のサウジアラビアのように宗教と政治を一体する考えであり、大まかには天皇を中心とする国造りをおこなって西洋諸国を追い越そうとしていたのです。明治政府は宗教を統一するため手始めに神祇官の復活を行いますまた、神仏判然令という法律も作って仏像を神体としたり神社に仏具をおくことを禁止したりもしていました。

明治時代以前には神道と仏教は神仏習合として一緒にされてきましたがらこれによって神道と仏教は急速に分離されていくようになります。こうして仏教と神道が切り離された状態となりましたが、さらに政府の命令でこれまで寺の領地が政府のものになる命令も出されたことによって境内を除いた寺や神社の領地を国が接収することになりました。

大教宣布の詔

政府は神仏分離令を発令した後、大教宣布の詔が発布されることになります。神道を日本中に広めるために宣教使と呼ばれる役職と大教院と呼ばれる機関を作りました。

大教院は神仏分離が行われた後に政府によって作られた機関で、これまで存在してきた神祇官の後継団体として設立されました。しかし、この組織もうまくいかず1875年に大教院は廃止されてしまいます。しかし、大教院がルーツとなっている組織は今でも残っており、例えば神社本庁などが後継団体に当たりますね。

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