そもそも幕藩体制とはなんなの?
幕藩体制とは江戸時代に入って江戸幕府が創始した幕府と全国各地に置かれていた藩の関係のことを指しますね。
歴史の授業で習ったかもしれませんが関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は1603年に江戸幕府を開くと、各地にいた大名の領地を与えたり、奪ったり、はたまたは領地を移転させたりするなど大名の統制する政策を行なっていきます。
また、第3代将軍である徳川家光の代になると各地の大名に対して領地宛行状という土地の所有を正式に認めて幕府とその土地を治める大名の間に主従関係を形成して確立させました。
これを幕府と藩の関係ということから幕藩体制と呼ばれるものとなります。
幕府は室町幕府のように大名が戦争したり勝手な行動を行わないように元和元年(1615年)に武家諸法度を発布。
城の修理を勝手に行わない・幕府の許可なく婚姻関係を結ばない・城は藩に一つのみとするなどの厳格なルールを取り決めて、これを破ったものはすぐさま改易(領地没収)を行うなど大名を抑えつけていました。
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そもそもどこからが藩になるの?
一般的に江戸時代において藩として認められるのは一万石からだと言われています。
じゃあ、一万石未満はどうなるのと思いますが、この人たちは将軍に会える人は旗本と、将軍に会えない人は御家人と呼んでいました。
旗本にも細かくランクが分かれており、3000石以上の領地を持っていた旗本を大身、元々守護大名の末裔の人は高家と呼ばれていました。
ちなみに、忠臣蔵の敵役となっている吉良上野介義央はこの高家の筆頭(リーダー)だったのですよ。
コラム1.必ずしも一万石が区分じゃないよ
江戸時代の大名は一万石を超えなければ認められないと書きましたが、実はその区分から外されている大名も少しながらいました。
その代表例が喜連川を治めていた喜連川氏。この喜連川氏という一族は元々関東公方と呼ばれる室町幕府において関東地方と東北地方の大部分を支配する名門中の名門でした。
元々、家柄というものにすごくこだわっていた徳川家康はこの室町幕府で重要な役割を果たした一族の末裔を非常に大切にして本当は5000石しかないはずなのになんと10万石と同じ扱いを受けることとなったのです。
しかし、10万石格になることはその責任や軍役や評価も10万石の大名相当になるということにもなり、非常に負担がかかったと言われています。やはり身の丈にあった身分がちょうどいいんですね。
あと、この時代において農村がないうえにお米が育つはずもない北海道の渡島半島を治めていた松前氏はアイヌ人との交易の収入を石高の代わりにして3万石の大名とされていました。
大名は細かく格が分かれていた
一万石以上の領地を与えられた人のことを大名と呼ぶようになりましたが、全国を見ると百万石を治めている加賀前田家がいる一方で、一万石を治めるのがやっとだという大名がいました。
もちろん、こんな差があるのに同じ扱いを受けていたはずもなく、大名には出自、領地の大きさなどで細かく区分されていました。
次はそんな大名の区分について見ていきましょう。