幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

明治維新への道筋を開いた「孝明天皇」とは?わかりやすく解説

幕府は圧力に負けて独断で日米和親条約に調印

翌年にアメリカのペリー提督は7隻の黒船で再び浦賀に現れ、脅しの艦砲射撃をして東京湾の測量をしたりしました。徳川幕府は、このペリー提督の圧力に耐えきれず、ついに孝明天皇の許可なく日米和親条約を締結するに至ってしまいます。そして、この和親条約はイギリス、ロシア、オランダとも結ぶことになってしまったのです。幕府は、孝明天皇に来航の報告をしながら、条約締結の判断は勝手にやってしまったのでした。

水戸藩を中心に攘夷論が高まる

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これに異を唱えたのは、徳川御三家の1つであった水戸藩主の徳川斉昭でした。水戸藩は、水戸黄門と言われた徳川(水戸)光圀以来国学の主流となり、尊皇主義を唱えてきたのです。そのため、徳川斉昭は天皇の勅許を得ずにアメリカと条約を結んだことを批判し、幕府の中で松平春嶽らと攘夷派を形成しました。そのため、日本国内には尊皇攘夷論が台頭するになったのです。

日米修好通商条約でも大老井伊直弼によって同じことが起こる

そして、アメリカは、ハリスが領事として来日すると、さらに日米修好通商条約の締結を強く求めてきたのです。日米和親条約は、下田、箱館(函館)の2港を開港するものの、商業取引は認めていませんでした。船の補給や遭難などのために寄港することは認め、領事を置くことも認めていたものの、通商条約にはなっていなかったのです。

このときに老中で大老になっていたのは彦根藩主の井伊直弼でした。井伊家は、徳川家康の四天王の1人と言われた井伊直政以来の名家で、徳川幕府老中の主要メンバーです。大老職に就いた井伊直弼(なおすけ)は、孝明天皇に相談も勅許も得ずにアメリカと独断で日米修好通商条約に調印しました。

孝明天皇に対する尊皇攘夷論の台頭と大老井伊直弼による安政の大獄

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これに対して徳川斉昭や松平春嶽らはその行為や井伊直弼を批判し、国内にも尊皇攘夷論が高まり、幕府批判が強まりました。しかし、大老の井伊直弼は、逆に幕府批判をする人たちを取り締まります。徳川斉昭なども謹慎させられ、梅田雲浜らの多くの勤皇志士たちが捕らえられ、処刑されたのです。その中には長州の吉田松蔭も含まれていました。これを安政の大獄といいます。吉田松蔭の処刑は、長州の反幕府派を刺激し、討幕行動に火をつけることになりました。

桜田門外の変によって井伊直弼暗殺

大老井伊直弼が安政の大獄で尊皇攘夷派を一斉検挙したのに対して、尊皇派の反発は逆に強まり、水戸藩などでは井伊直弼暗殺の動きが出てきます。薩摩藩の一部脱藩浪士たちも含めて、翌年1858年に桜田門外に江戸城から出てくる井伊直弼を待ち伏せ、彼を暗殺するに至ったのです。これが桜田門外の変と言います。これ以降、孝明天皇のいる京都には、尊皇攘夷派が集まるようになり、長州藩や薩摩藩の尊皇攘夷派を中心に天皇中心に新しい世の中を築こうという志士たちが集まりました。

幕府との融和に動く孝明天皇

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しかし、孝明天皇はそのような長州を中心とした討幕行動には顔をしかめていたのです。孝明天皇は、あくまでも幕府中心に攘夷がおこなわれることを望んでいました。

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