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維新三傑の一人「西郷隆盛」を元予備校講師がわかりやすく解説

幕末から明治維新にかけて、最も活躍した人物として取り上げられることが多い西郷隆盛。彼は大久保利通や木戸孝允と並んで維新三傑と称されます。2018年の大河ドラマ「西郷ドン」の主人公としても有名ですね。英明な君主と評判だった島津斉彬に見いだされた西郷は薩摩藩を代表する人物へと成長し明治維新を成し遂げます。しかし、東京に残った大久保らと袂を分かった西郷は故郷鹿児島で挙兵し西南戦争を引き起こしました。今回は、維新三傑の一人である西郷隆盛について元予備校講師がわかりやすく解説します。

力を蓄えた青年時代

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江戸時代後期の1828(文政十)年、薩摩藩の下級藩士の家に生まれた西郷隆盛は薩摩藩主となった島津斉彬の目に留まり斉彬の側近となりました。英主斉彬から直接指導された隆盛はぐんぐんと成長し視野を広げます。斉彬の手足となって主に外交面で活躍した西郷でしたが、斉彬の急死によってよりどころを失ってしまいました。ついには、僧月照とともに薩摩の錦江湾で入水自殺を図ります。

 

出生から少年期にかけて

西郷は1828年に薩摩藩の居城が置かれていた鹿児島の城下町に生まれました。彼の住む加冶屋町は明治維新や維新後の明治政府で活躍した多くの分物を排出します。

互いに「一蔵」「吉之助」と呼び合う中だった大久保利通を始め、いとこの日露戦争で陸軍の司令官となった大山巌や西郷の弟で海軍大臣などをつとめた西郷従道、日本海海戦の勝利者となった東郷平八郎や日露戦争当時の海軍大臣で後に首相になる山本権兵衛など、加治屋町からは多くの偉人がでました。

西郷は、薩摩藩独特の仕組みである郷中では、仲間たちから信望を寄せられる存在だったようです。

1839年、郷中の仲間が他の郷中の者と喧嘩になりそうになったので仲裁に入ったところ、相手から切りつけられ右腕の神経を損傷してしまいました。そのため、西郷は刀を握ることが出来なくなります。西郷は剣の道ではなく、学問で身を立てようとしました

お由羅騒動と島津斉彬による登用

1844年、西郷は郡方書役助となり藩に仕える役人となりました。1850年のお由羅騒動では西郷の父、吉兵衛が仕えていた斉彬派の重臣赤山靭負(あかやまゆきえ)が自害に追い込まれます。吉兵衛は赤山の血に染まった衣を譲り受け自宅に持ち帰りました。この一件は隆盛に大きな影響を与えたかもしれません。

お由羅騒動の翌年、将軍家慶の勧めによりしぶしぶ斉興が隠居。ついに、島津斉彬が薩摩藩主となりました。1853年、ペリーが浦賀に来航したとき、隆盛は藩主の斉彬に意見書を提出。これが認められ、西郷は斉彬の側近くに仕えることになりました。

当代きっての開明派君主だった斉彬から直接指導を受けた隆盛は、斉彬の手足となって徳川慶喜を将軍にし、幕府と雄藩の藩主が協力して政治を行う体勢の実現を目指します。

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