幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争の最終決戦「箱館戦争(五稜郭の戦い)」をわかりやすく解説

箱館戦争とは、幕末の1869年におきた新政府軍と旧幕府軍の戦いです。前年の鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争の最終決戦でもあります。日本史の教科書では五稜郭の戦いとして教えられますね。各地の戦いに敗れた旧幕府軍は幕府海軍を引き連れて脱走した榎本武揚が占拠する蝦夷地・五稜郭を目指しました。そして、この地で新政府軍と旧幕府軍の最後の決戦が行われたのです。今回は、箱館戦争を戊辰戦争全体と関連させつつ、紹介します。

戊辰戦争直前の政治の流れ

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1866年、江戸幕府14代将軍の徳川家茂が幕府の命令に従わない長州藩を攻めている(第二次長州征討)最中に病死しました。同じ年の12月、幕府と朝廷が協力して難局を乗り切るべきと考える公武合体派の天皇、孝明天皇がこの世を去ります。

これらのことは幕府に大きなダメージを与えました。ガタガタになった幕府の立て直しの期待をかけられて将軍に就任したのが15代将軍徳川慶喜でした。

15代将軍、徳川慶喜の就任

混乱状態だった幕府立て直しの切り札として期待されたのが一橋家の当主、徳川慶喜でした。慶喜はフランス公使ロッシュの力を借りて幕府軍の立て直しを図ります。その一方、会津藩や桑名藩といった幕府に忠実な藩の力を借りて薩摩藩や長州藩に対抗しようとしました。

慶喜の対抗策は徐々に功を奏し、幕府は体勢を立て直しつつありました。これに対して、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らは朝廷や天皇を味方につけることで幕府を武力で倒そうと動き出します。こうして出されたのが討幕の密勅でした。

密勅が実行されると幕府や徳川慶喜は天皇に逆らう逆賊とされてしまいます。逆賊にされないために慶喜が打った手、それが大政奉還です。

大政奉還~政治を朝廷に返す~

薩摩藩・長州藩が武力討幕を目指すのに対し、有力藩の一つである土佐藩は幕府や諸大名による連合政権である雄藩連合を目指していました。

元土佐藩士の坂本龍馬は藩主側近の後藤象二郎を通じて土佐藩主山内豊信に大政奉還を進言。幕府をなくして政治を朝廷に返せば、薩摩や長州が目指す武力討幕は不可能になると説きました。山内から大政奉還を提案された慶喜はこれを承諾します。

1867年10月14日、討幕の密勅が出されたその日に、大政奉還が行われました。幕府がなくなった以上、討幕の密勅は無意味となります。薩長による武力討幕は不可能になったと思われました。慶喜としては、政権を朝廷に返しても政治をする経験が少ない朝廷はすぐに自分に協力を要請してくるという読みもあったでしょう。

王政復古の大号令~何としても幕府を倒す!~

大政奉還により幕府(これ以後は幕府がないので旧幕府と書きます)を武力で倒すことはできません。しかし、薩摩や長州は旧幕府の力をそのままにしていれば、いずれは逆転されるのではないかと恐れていました。

1867年12月、王政復古の大号令が下されます。摂政・関白・幕府などをなくして、あらたに三職を置き政治を行うというものでした。

その夜に開かれた小御所会議では慶喜の扱いについて話し合われました。慶喜の官位と領地を返上させよと迫る薩長や岩倉具視、慶喜を政権に参加させようとする山内豊信らとの議論は白熱しましたが、岩倉らがこの議論に勝利。慶喜は官位と領地の返上を迫られました

日本最大の内戦、戊辰戦争の始まり

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王政復古の大号令で天皇と朝廷を手中に収めた薩摩・長州を中心とする新政府は旧幕府と対立を深めます。暦の上では戊辰の年にあたる1868年、ついに新政府軍と旧幕府軍が正面化激突しました。これが、戊辰戦争です。

戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いに始まり、箱館戦争(五稜郭の戦い)で終結する一連の戦争のことで、日本史上最大規模の内戦となりました。戦いの期間はおよそ1年余に及びました。ここでは、鳥羽伏見の戦いから会津戦争までをまとめ、箱館戦争直前の流れを整理しましょう

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