幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

明治維新への道筋を開いた「孝明天皇」とは?わかりやすく解説

疑われた孝明天皇の逝去の原因

孝明天皇は日米修好通商条約には反対され、攘夷を唱えていたものの、幕府と権力争いをするつもりはなく、常に幕府を支持されていたのです。その孝明天皇が崩御され、しかも幕府は第二次長州征伐に失敗していたことから、幕末の動きは一変します。薩摩と長州が主導権を握り、幕府討伐に舵を切ったのです。最後の徳川将軍になっていた慶喜は大政奉還をして政局の再転換を図ろうとします。しかし、岩倉具視が幕府討伐の勅許を引き出し、徳川慶喜は朝敵となってしまい、戊辰戦争を経て江戸城を明け渡すことになってしまったのです。岩倉具視が引き出した勅許は偽物だったと言われています。

明治天皇を囲い込んだ岩倉具視と薩長

image by PIXTA / 12638643

歴史上では孝明天皇は病死となっていますが、岩倉具視が暗殺したのではないかと疑う声もあります。孝明天皇が崩御されたときに岩倉具視は号泣したと言われていますが、一方で、後には勅許を偽造した疑いもあり、正体のよくわからない人物でもあるのです。孝明天皇が生きていれば、徳川慶喜が列強会議の議長に座り、島津、長州の出る幕はなかったかもしれませんね。

徳川幕府の崩壊によって新時代の到来

結局、孝明天皇崩御によって天下はひっくり返り、徳川幕府は崩壊し、明治維新によって新しい時代が到来したのです。結果的には明治新政府が成立し、明治時代になって日本は近代化を果たします。しかし、長州出身者たちの占める日本陸軍は日本を戦争に巻き込み、第二次世界大戦では敗戦に追い込んでしまったのです。

戦いを望まず、平和を望んだ孝明天皇

image by iStockphoto

孝明天皇は外国嫌いで攘夷を主張しましたが、それは日本の平和な社会が壊れるのを恐れたからでした。決して外国との戦争を望んだのではなかったのです。正しい情報が孝明天皇に入っていれば、攘夷論を主張されることはなかったでしょう。その平和を願う孝明天皇の姿勢は、現代人も見習うべきと言えます。いたずらに敵国を作って対立する現在の政治状況は回避すべきでしょうね。

1 2 3 4
Share: