室町時代戦国時代日本の歴史

謀略家と気前の良さ…そのギャップがそそられる謀聖「尼子経久」の生涯とは

猛将、智将、勇将と、戦国時代を彩った武将の枕詞につけられる呼称は枚挙にいとまがありません。尼子経久(あまごつねひさ)は、智将の中でもひときわ異彩を放つ「謀聖(ぼうせい)」と呼ばれた武将。その呼び名の通り、謀略で勢力を広げていきました。謀略で敵に勝利するやり方は鮮やかでしたが、意外にも彼はプライベートでは気前の良さをうかがえる逸話にも事欠きません。実に魅力的な人物である彼の生涯を、今回はご紹介したいと思います。

独立を図った尼子氏の当主となるが、多難の船出

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by Reggaeman – scanning from Hirose-cho Tourist Association pamphlet, パブリック・ドメイン, リンクによる

尼子経久は出雲の武将で、守護・京極氏に従う守護代の家に生まれました。しかし父の代から独立を画策し、勢力を着々と拡大していきます。しかし、いざ独立!というところで、これまで加勢してくれていた豪族たちからも離反され、城を追い出されてしまいました。ただ、それで諦める経久ではありません。ここからが、下剋上の始まりでした。

出雲守護代・尼子氏に生まれる

尼子経久は、長禄2(1458)年に生まれました。父・尼子清定(あまごきよさだ)は出雲(島根県)の守護代(守護に次ぐ地位)で、尼子氏は守護の京極氏の分家でした。

少年時代の経久は、主家である京極政経(きょうごくまさつね)の人質となり、京都にある政経の屋敷に5年間滞在します。この時に元服を果たし、政経の「経」の一字をもらって経久となりました。

そして、文明10(1478)年、21歳くらいの時には父から家督を譲られていたとされています。

力をつけ独立を画策するが、失敗して城を奪われてしまう

父・清定は京極氏の内紛鎮圧にも功績がありましたが、応仁の乱の後から支配力を弱めて行った京極氏に対し、ひそかに独立を考えるようになりました。その考えは経久に受け継がれ、彼は動き始めます。

まず、周辺の豪族=国人(こくじん)との結び付きを強め、支持基盤を拡大しました。そして、京極氏の領地を無断で自分のものとしたり、徴収したお金を納めなかったりなど、明らかな反抗を見せて行ったのです。

しかし、後に謀聖と呼ばれた経久も、この時はまだ若すぎました。独立に際して国人たちは協力してくれるだろうという算段のあった彼ですが、彼の態度は国人たちから決して良く思われていなかったのです。そのため、一度友誼を結んだ国人たちからそっぽを向かれ、京極氏からも当然良く思われず、なんと彼は守護代の地位を失ってしまったのでした。

謀聖としての第一歩:城奪還作戦

守護代の地位を失ったというのが歴史上の認識ですが、経久に関してはここからが面白い逸話の宝庫です。

国人たちの反発を受け、居城・月山富田城(がっさんとだじょう)を追い出されてしまった経久は、浪人となってしまいました。そして流浪の旅を続ける中、鉢屋弥之三郎(はちややのさぶろう)という忍びの頭領と出会い、協力を取り付けて城の奪還作戦へと臨むのです。

弥之三郎たちは、元旦のお祝いの舞を舞うという名目で月山富田城に入り込みましたが、こっそりと武器を持っていました。そして城内で舞を披露すると見せかけ、太鼓を打ち鳴らします。実はそれが合図で、城の外で待機していた経久たちも蜂起し、城内に突入して敵将を討ち取り、見事に城を取り戻したのです。

謀聖・経久の下剋上

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月山富田城を取り戻した経久は、出雲を掌握するために周辺国人の攻略に本腰を入れ始めます。それに当たって、彼は年単位で謀略を仕掛け、手ごわい敵を下してきました。そして、かつての主と和解し、その主が亡くなるとひそかに下剋上を遂げることになるのです。

家臣が敵方に逃亡し、月山富田城を落とそうとする!?

月山富田城を回復したとはいえ、経久に従わない出雲の国人たちは依然として存在していました。その中でも、三澤氏は強敵で、攻めるにしてもなかなか打ち負かすことはできそうにありません。

ある時、経久の家臣で山中某(なにがし)という者が、足軽を切り殺して三澤氏の領地に逃げ込むということが起こりました。経久はすぐに山中の母と妻子を捕らえ、牢屋に入れてしまいます。

逃亡した山中は、三澤氏に仕えるようになり、2年経って信頼も得るようになりました。すると彼は、「私に兵を200人お与えくださったらならば、よく知っている月山富田城を落としてみせましょう。内通者もおりますから」と三澤の主に囁きます。三澤は山中の言葉をチャンスととらえ、彼に500人の兵を与えました。

月山富田城はすぐそこというところまでやって来ると、山中は「では、手引きをしてきますので」と言って隊を離れていきました。

埋伏の毒作戦で敵を下す

山中が手引きをしてくると思っていた兵たちでしたが、山中は一向に戻って来ません。

やがて、城門が開きましたが、そこから現れたのは武装した尼子の兵たち。話が違うと慌てる三澤の兵たちに、背後からも尼子の伏兵が襲い掛かります。たまらず三澤隊は退却を始めますが、その間にも尼子兵に討たれたり、谷底に落ちたりなど、さんざんな目に遭わされたのです。そして、経久の勢いに圧倒された三澤一族は降伏することとなったのでした。

実は、山中の出奔もすべて経久との間であらかじめ決められたことだったのです。まさに「埋伏の毒」の作戦ですよね。2年をかけて行われたこの作戦は、経久の冴えわたる謀略が伝わる逸話です。

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