- 庶子ながら100万石の藩主となる
- 前田利家の庶子として生まれる
- 父との対面と転がり込んだ後継者の座
- 幼くしての結婚は、徳川政権との取引によるもの
- うつけ者になろうと決めるまでの、前田家と利常の苦難
- 家督を継ぎ、大坂の陣を経験する
- 家康に「お前を殺した方がいいと思っていた」と言われる
- 何をしても幕府に睨まれる前田家
- 徹底的にうつけ者を演じ、家を守った利常
- うつけ者を決め込むことにした利常、鼻毛を伸ばす
- 「お前たちと国のための鼻毛だ」by利常
- 父も従兄弟もうつけ者!?もはやお家芸
- 江戸城での奇行(わざと)の数々
- 加賀ルネサンスを花開かせた利常
- 隠居するも孫のために復帰
- なんと上皇と仲良し!加賀ルネサンスのきっかけ
- 実は野心も忘れていなかった?息子への小言
- 「微妙」なさじ加減がミソ!時代を泳ぎ切った利常
この記事の目次
庶子ながら100万石の藩主となる
利常は前田利家(まえだとしいえ)の四男であり庶子でした。このため、家督を継ぐ見込みはほとんどなかったのですが、様々な事情のために彼に当主の座が転がり込んできます。加賀藩主となった若き利常は、父や兄から受け継いだ加賀百万石を守ろうと奮闘しました。時に失敗もしましたが…さて、彼の若かりし頃はどんな様子だったのでしょうか。
前田利家の庶子として生まれる
文禄2(1594)年、利常は前田利家の四男として誕生しました。父は豊臣秀吉の大親友で、絶大な信頼を寄せられていた豊臣政権の重鎮でもありました。そんな父が56歳の時に生まれた利常ですが、母が下級武士の娘という身分の側室だったため、5歳になるまで対面することはなかったそうです。
幼い利常は、長姉・幸姫(こうひめ)とその夫である前田長種(まえだながたね)によって育てられることとなりました。
長種は同じ前田姓で一族ではありますが、利常とは別の家の出身。小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いでは秀吉方として徳川家康らと戦うも敗れてしまいますが、利常の父・利家に家臣として迎えられ再起できた人物でした。妻が利家の娘であるということもあり、不遇な利常を不憫に思ったのかもしれませんね。
父との対面と転がり込んだ後継者の座
慶長3(1598)年、5歳になった利常は、ようやく父・利家と対面を果たします。このころすでに利家は体調を崩しており、翌年には亡くなってしまうのですが、ギリギリセーフのところで父と会うことができたのは良かったですよね。
5歳まで放っておいた息子でしたが、利家は何かを感じ取ったのでしょうか、幼い息子を気に入り、刀を授けたと言われていますよ。
父が亡くなると、長兄の利長(としなが)が跡を継ぎます。しかし兄は子供に恵まれず、翌年には利常が養子に迎えられることとなりました。
2番目の弟はこの時出家していたため、利常は、跡継ぎにするのは3番目の弟の利政(としまさ)と考えていたようです。しかし、関ヶ原の戦いの際に利政が戦いに加わらず、西軍に味方したものとみなされてしまったため、所領を没収されていたという事実がありました。これでは跡継ぎにはできない…と、利長は利常を養子にして自分の後継者とすることにしたわけです。
幼くしての結婚は、徳川政権との取引によるもの
兄の養子となった利常は、7歳の時にもう正室を娶っています。しかも、その正室も3歳というのですから驚きですよね。この正室・珠姫(たまひめ)は、徳川家康の息子であり江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と正室・お江(おごう)の方の娘。実質上日本のトップの娘婿となったわけですから、それはもうすごいことなんですよ。
しかしここにも理由がありまして…。
利常の兄・利長が前田家を継いで間もなく、徳川家康から謀反の疑いをかけられてしまったんです。元々、前田利家と豊臣秀吉の関係から、前田家は親・豊臣派とみられており、天下を狙う家康にとっては目の上のたんこぶのようなものだったわけですね。
この疑いを解くため、利長は実母を人質に差し出し、その見返りとして珠姫が利常に嫁ぐという約束が結ばれ、前田家は豊臣から徳川へと鞍替えしたということなんです。
大名たちの中でも異例中の異例である100万石超えの領地を持っていた前田家ですから、幕府としても軽視するわけにはいかず、婚姻関係も含めて取り込もうとしたというわけですね。
うつけ者になろうと決めるまでの、前田家と利常の苦難
家督を継ぎ、加賀前田家の当主となった利常は、大坂の陣を経て江戸幕府の時代を生き抜くことになります。徳川に臣従したものの、豊臣政権時代に親・豊臣の筆頭だった前田家は、何かと徳川の顔色をうかがわなければなりませんでした。そして、利常は「うつけ者」として生きる道を選ぶことになるのです。どんなプロセスを経て、彼はうつけを選ぶことになったのでしょうか。
家督を継ぎ、大坂の陣を経験する
12歳の時に兄から家督を譲られた利常は、21歳の時に大坂冬の陣を経験します。しかし、若気の至りと言いますか、独断専行した挙句に真田信繁(さなだのぶしげ)にこてんぱんにやられてしまいました。
しかし、この汚名を返上すべく臨んだ大坂夏の陣では奮闘し、失敗を帳消しにしています。戦後には、戦死した者たちを弔うために寺を建立し、冥福を祈りました。それを見た家臣たちは、この人のためなら命を懸けてもいいと思ったと言われています。
利常は、家康から加賀・能登・越中(石川県・富山県)の領地の代わりに、阿波・讃岐・伊予・土佐(四国全域)を与えようと提案されました。しかし彼は、このままがいいと固辞しています。
家康からすれば、100万石以上の領地を持った前田家を国替えし、少しでも力を削ぎたいところだったのでしょう。
家康に「お前を殺した方がいいと思っていた」と言われる
さて、やがて徳川家康は死の床に就き、もはや起き上がることも叶わなくなります。
諸大名を枕頭に呼び、おのおのに話をした家康ですが、利常に対しては衝撃的なことを言いました。
「お前を殺した方がいいと将軍(秀忠)に何度も言ったのだが、あいつは、お前は信頼できる奴だからダメだと聞かぬ。わしの恩は感じなくていいが、将軍の恩は忘れてはならぬぞ」と。
秀忠にとって利常は娘婿。大事な娘の夫だからと信頼してくれた秀忠には感謝の思いを抱いたかもしれませんが、やっぱり幕府には睨まれているのかもしれない…と利常が思ったことは想像に難くありませんよね。父譲りの立派な風貌により、家康は名将・前田利家の面影を色濃く利常に見出していたため、警戒を強めていたとも言われています。
また、母が異なる弟たちとの仲がしっくりいかず、国許でもいつ足元をすくわれるかわからない状態が続きました。利常にとっては頭の痛いことばかりだったのです。