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多くの大名をだました「版籍奉還」明治新政府の藩制度廃止をわかりやすく解説

明治維新後におこなわれた版籍奉還は、多くの大名が自主的に領土組織である藩そのものを差し出したものでした。薩摩の島津氏、長州の毛利氏、土佐の山内氏、肥前の鍋島氏などの維新で功績の大きかった藩主が進んで返還したのです。しかし、それは、明治新政府の中心になった木戸孝允、伊藤博文らの廃藩置県に向けた最初の第一手で、ほとんどの大名は実質的には元と同じになると思っていたのです。 後には大名は華族という称号だけが残ることになり、島津久光を大変怒らせることになった版籍奉還について解説します。

版籍奉還とは何のためにおこなわれたのか

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戊辰戦争で明治維新が成立した1869年、旧来の朝廷に代わる明治新政府は、版籍奉還を実施しました。しかし、実際にはそれ以前にほとんどの各藩の大名が版籍(藩に所属する土地とその支配権)の返上をおこなっており、実際にはその追認だったのです。版籍奉還の決定の結果、各大名は自分の藩の知藩事に任命され、実質的にはそれまでとそれほど変わりませんでした。

では、実質的に何も変わらないようなことをなぜおこなったのでしょうか。

それは、2年後におこなわれた廃藩置県への布石だったのです。

版籍奉還の舞台裏で暗躍した人たち

明治新政府では、薩摩の寺島宗則(後の外務大臣)や森有礼(後の文部大臣)、長州の木戸孝允や伊藤博文らが地方に任せる幕藩体制では日本の近代化はできないと主張していました。改革のために早くから廃藩置県をおこなうように主張していたのです。長州の藩主の毛利敬親は「そうせい殿様」と有名で、長州出身の木戸や伊藤はすぐにも実施したかったのでしょう。しかし、口うるさい島津久光がいまだに国政への諸侯会議での参画を期待している島津藩では、西郷隆盛や大久保利通らは表だって主張することを控えていました。そのため、その後ろにいる寺島らに言わせていたのです。そのため、廃藩置県はすぐに実施することは難しいと言わざるを得ませんでした。そこで、まず全国の大名に版籍奉還を実施させて、大名たちを天皇を中心とした明治新政府が知藩事に任命することで、まず形だけでも中央集権にしようということになったのです。

版籍奉還の背景には何があったのか

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戊辰戦争で徳川幕府が崩壊して、実は、それまで征服夷大将軍であった徳川将軍の江戸幕府がおこなっていた本領安堵がどうなるのか、多くの大名たちは疑心暗鬼になっていました。

それに対して、明治維新の中心的役割を果たした島津(薩摩)、毛利(長州)、山内(土佐)、鍋島(肥前)の藩主が版籍奉還を申し出たことによって、全国の各大名たちはこぞってそのあとについて版籍奉還を申し出たのです。

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