- 版籍奉還とは何のためにおこなわれたのか
- 版籍奉還の舞台裏で暗躍した人たち
- 版籍奉還の背景には何があったのか
- 大名の支配する藩はひとつの国とも言えた
- 藩制度が残る限り日本の近代化はなかった
- 大名たちをだました木戸孝允_知藩事と華族任命の裏
- 大名たちは自分たちの地位が変わるとは思わなかった
- 版籍奉還の結果はどうなった
- 明治新政府は2年後の次の一手に向けて動く
- 2年後の廃藩置県によって大名たちは名誉身分の華族の称号のみに
- 多くの藩内には職を失った武士に不満が高まる
- 武家社会を崩壊させた新政府
- 島津久光の怒りは西郷隆盛に
- 大久保利通は廃藩置県を見届けて西洋視察へ
- 版籍奉還と廃藩置県によって中央集権が確立し、本格的に近代化に向かう
- 日本の近代化への一里塚になった版籍奉還
この記事の目次
版籍奉還とは何のためにおこなわれたのか
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戊辰戦争で明治維新が成立した1869年、旧来の朝廷に代わる明治新政府は、版籍奉還を実施しました。しかし、実際にはそれ以前にほとんどの各藩の大名が版籍(藩に所属する土地とその支配権)の返上をおこなっており、実際にはその追認だったのです。版籍奉還の決定の結果、各大名は自分の藩の知藩事に任命され、実質的にはそれまでとそれほど変わりませんでした。
では、実質的に何も変わらないようなことをなぜおこなったのでしょうか。
それは、2年後におこなわれた廃藩置県への布石だったのです。
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版籍奉還の舞台裏で暗躍した人たち
明治新政府では、薩摩の寺島宗則(後の外務大臣)や森有礼(後の文部大臣)、長州の木戸孝允や伊藤博文らが地方に任せる幕藩体制では日本の近代化はできないと主張していました。改革のために早くから廃藩置県をおこなうように主張していたのです。長州の藩主の毛利敬親は「そうせい殿様」と有名で、長州出身の木戸や伊藤はすぐにも実施したかったのでしょう。しかし、口うるさい島津久光がいまだに国政への諸侯会議での参画を期待している島津藩では、西郷隆盛や大久保利通らは表だって主張することを控えていました。そのため、その後ろにいる寺島らに言わせていたのです。そのため、廃藩置県はすぐに実施することは難しいと言わざるを得ませんでした。そこで、まず全国の大名に版籍奉還を実施させて、大名たちを天皇を中心とした明治新政府が知藩事に任命することで、まず形だけでも中央集権にしようということになったのです。
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版籍奉還の背景には何があったのか
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戊辰戦争で徳川幕府が崩壊して、実は、それまで征服夷大将軍であった徳川将軍の江戸幕府がおこなっていた本領安堵がどうなるのか、多くの大名たちは疑心暗鬼になっていました。
それに対して、明治維新の中心的役割を果たした島津(薩摩)、毛利(長州)、山内(土佐)、鍋島(肥前)の藩主が版籍奉還を申し出たことによって、全国の各大名たちはこぞってそのあとについて版籍奉還を申し出たのです。
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