明治新政府は2年後の次の一手に向けて動く
すなわち、明治新政府は、各藩に対して年貢の徴収率の統一を要求するとともに、新たに国の軍隊を作り、それを維持するために集めた年貢の政府への支払い負担を定めました。
この新政府の政策実施のために、各藩の財政は苦しくなり、武士層をすべて抱えておくことができなくなり、職を失う武士が増え、その結果、新政府に対する不満が高まったのです。それらの不満に対して、各藩は対応することができませんでした。
2年後の廃藩置県によって大名たちは名誉身分の華族の称号のみに
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結果的には、2年後に廃藩置県がおこなわれたことで救われた元大名も多かったのです。手元には廃藩によって政府から支給された報録と一時金が手に入り、しかも公卿と同格の華族としての名誉の称号も残っていたのですから、たまりませんね。
しかし、薩摩などの大大名たちには、藩を運営できる余力があったにもかかわらず、名誉の華族の称号のみになってしまい、抵抗感が大きくなりました。とくに、戊辰戦争の中心的存在として活躍した西日本の藩では、新たに知事が任命され、大名時代の軍事組織は解散になったことでさらに不満が高まりました。新政府に任命された知事の元で職を得られる武士は一部であったために、西日本では武士層の反乱が数多く生じたのです。
多くの藩内には職を失った武士に不満が高まる
さらに明治新政府は、武士の命とも言える刀を取り上げます。帯刀禁止令です。これによって、職を失った武士たちは行き所を失います。そのため、新政府は、北海道の屯田兵などとしてそれらの職を失った武士たちを送ったり、薩摩をはじめとした武士層を政府軍に組み込んだりして、不満を抑えようとしました。
武家社会を崩壊させた新政府
一方で、新政府は、西郷隆盛らが下野した1873年には、各藩から派遣された兵制を断念し、新政府の山県有朋(長州出身)を中心として西洋式の徴兵制度を採用したのです。かつて高杉晋作が編み出した奇兵隊をモデルとして、身分にかかわらずすべての若者を兵役に就かせることによって軍隊を編成しました。そこでは、武士の刀ではなく、銃器を中心とした近代的な陸軍を育成したのです。西郷隆盛が薩摩出身の武士たちを連れて下野した中では、富国強兵として重要な政策となりました。
それによって、武力を糧とする武士として生きていくことはますます難しくなり、西日本では、佐賀の乱、熊本神風連の乱など武士層の反乱が続くことになったのです。その最後に起こったのが、西郷隆盛が下野した薩摩で起こった西南の役でした。それは、版籍奉還に端を発した武士社会の破壊の最終到達点だったと言えます。武士層からなる薩摩軍は、刀を持ったこともない新政府の近代銃器を持った政府軍に敗れ去ったのです。
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島津久光の怒りは西郷隆盛に
版籍奉還までは西郷隆盛や大久保利通の言うことを信用していた島津久光も、廃藩置県に至って明治新政府に騙されたことを悟り、死ぬまで西郷隆盛を許しませんでした。
その西郷隆盛も西南の役で多くの職を失った下級武士層とともに戦死していたのです。