- 「五色塚古墳」の素晴らしいロケーション
- 目の前に明石海峡大橋が!その素晴らしすぎる眺望
- 歴史ファンも納得!築造当時さながらの姿に復元
- 「五色塚古墳」は誰がいったい何のために造った?
- 都へ通じる「海の道」を支配していた人物?
- ヤマト王権と連合政権を組んだ葛城氏の墓?
- 「五色塚古墳」は皇位継承争いの際に造られた陣地?
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この記事の目次
「五色塚古墳」の素晴らしいロケーション
五色塚古墳は神戸市垂水区にありますが、地元の方でもその存在を知らない人はけっこういるのです。ことさらに観光地化されていませんし、アピールもさほどしていないため、どことなく地味な印象があるのですね。しかしその立地といい、古墳としての姿といい、素晴らしいものがあります。まずその魅力を紹介していきましょう。
目の前に明石海峡大橋が!その素晴らしすぎる眺望
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古墳といえば鬱蒼とした樹木に覆われていたり、ちょっとした小山のようだったりというイメージがあるかも知れませんが、五色塚古墳はまったく違います。例えるなら樹木が茂っていない丘のようなものです。
また目の前に邪魔になるものが一切ないため、視界がかなり開けていて眺望が利くということも大きなポイント。そして視線を西へ移せば有名過ぎる吊り橋【明石海峡大橋】を望むことができますね。大橋のライトアップも素晴らしいものですが、残念ながら夕方17時で五色塚古墳は閉園しますので、夜景を見ることはできません。
しかし美しい大橋や対岸の淡路島、そして海を渡る船舶も遠望できますからロケーションは最高ではないでしょうか。しかも入場無料ですから、ここはぜひ訪れてもらいたい穴場だと思いますよ。
歴史ファンも納得!築造当時さながらの姿に復元
実は五色塚古墳は住宅地のど真ん中にあります。JR垂水駅や山陽電鉄霞ヶ丘駅が最寄りですが、電車に乗っていても古墳は高台にあるため姿をよく確認できません。
しかしグーグルマップなどで真上から見てみると、その美しい形に魅了されるのではないでしょうか。長さが194メートルもある前方後円墳で、住宅開発のために破壊されたのでしょう、周囲を囲む堀は消滅しているとのこと。
周囲を取り囲むように円筒形埴輪が2,200本も配置され、墳丘の表面は葺石(ふきいし)と呼ばれる小石が223万個も置かれています。この葺石は対岸の淡路島から採取された当時そのままのもので、淡路島には五色浜という地名もあることから五色塚古墳と名付けられたといわれていますね。また朝日に葺石が輝く様子から「五色」と名付けられたとも。
すぐ隣にある小壷古墳とともに整備事業が行われ、昭和50年に整備が完成しています。しかし石室など埋葬施設の調査は行われなかったため、内部にはまだ石棺が眠っているのかも知れません。
「五色塚古墳」は誰がいったい何のために造った?
歴史の特徴として古い時代になればなるほど、果たしてそれが実在したものなのか?また本当にあった話なのか?疑わしいものになってきます。4世紀末~5世紀初めに築造された五色塚古墳もそうですね。古事記や日本書紀の中ではっきりと誰の墓とは記述されていないため、非常に断定が困難なのです。そこで伝承や状況的証拠を俯瞰した上でちょっと考えてみましょう。
都へ通じる「海の道」を支配していた人物?
大阪府堺市にある古墳群が好例なのですが、築造当時は海岸線がもっと内陸にあったため、仁徳天皇陵や履中天皇陵などは海から都へやって来る人々からよく見えていたそうですね。巨大な築造物を見せつけることにより権力を誇示する意味があったのです。
五色塚古墳も明石海峡から至近の距離にあり、当時から海峡を船で通る人々からよく見えていたことでしょう。「権力と富」の象徴である古墳は支配者のシンボルでもありました。
五色塚古墳に埋葬されている人物は、大王(おおきみ)と関連が深い豪族クラスだったのでは?という説が一般的です。確かに大王のいるヤマト王権からも地域的に近く、都へ運ぶ物資の輸送ルートでもある明石海峡を支配する勢力ともなれば、相当な地位にある人物が存在していたといえるでしょうね。
次の項では、これもあくまで推測になりますが、二つの説を紹介してみたいと思います。
ヤマト王権と連合政権を組んだ葛城氏の墓?
古墳時代にあたるヤマト王権は、「倭の五王」に例えられるように各地の豪族たちを糾合した連合政権でした。その中でもヤマトの大王家と葛城氏の力は強大で、勢力を二分するかのような二頭政治が行われていたそうです。
葛城氏の本拠地は、現在の奈良県葛城市や御所市の辺りだとされています。葛城氏の始祖【葛城襲津彦(そつひこ)】は娘を仁徳天皇の妃とし、大王家とは姻戚関係にありました。また南河内(現在の大阪府南部)にも勢力を張って、そこから淡路島~垂水~但馬、丹後に及ぶ勢力圏を持っていたのです。
ちなみに【葛木出石姫(かつらぎいずしひめ)】という女神が但馬から葛城へやって来たという伝承があり、葛城氏の祖になったとも。それがそのまま葛城氏の流れを表しているそうですね。当時の但馬と葛城の関係性を示しているのかも知れません。
いずれにしても葛城氏はヤマト王権と直接繋がり、葛城地方と但馬地方を結ぶ中間点にあたる海峡の要地垂水(五色塚古墳のある場所)を支配したといえるでしょう。葛城国の首長で【垂見宿禰(たるみのすくね)】という名もあるほどですから。だとすれば五色塚古墳に葬られた人物は、葛城氏の首長だということになるかも知れませんね。
「五色塚古墳」は皇位継承争いの際に造られた陣地?
記紀(日本書紀や古事記)によれば、神功皇后は女性でありながら非常に武勇に優れた人物だったようで、ヤマト王権に楯突いた九州の熊襲を征伐したり、遥か朝鮮半島へ渡って新羅を攻めたりしたそうです。
夫の仲哀天皇の死後、神功皇后はお腹に子供を宿したまま海を渡り新羅と戦いました。そして戦いを終え九州で生まれたのが後の応神天皇だとされていますね。ところが仲哀天皇には別に息子がおり、もしかしてその幼い子供に皇位を奪われるのではないか?と不安にかられたのが忍熊皇子だったのです。畿内へ戻ってくる神功皇后の軍に対して、忍熊皇子は挙兵し迎え撃とうとします。
神功皇后の船が現在の武庫川河口(兵庫県西宮市)まで来るといっこうに船は進まなくなりました。するとそこへ天照大神が現われ、「底筒男命、中筒男命、表筒男命の和魂を社へ祀れ」と啓示を受けます。言う通りに神々を祀るとようやく船を進ませることができるようになりました。現在、明石市魚住にある住吉神社がそれで、海路安全のご利益があるとして現在も尊崇を受けています。
いっぽう忍熊皇子は神功皇后を迎え撃つため、水路が狭い明石の地に砦を築きました。「亡き仲哀天皇の陵墓として築けば容易には攻めかかってこれまい。」と言い放ち、自らを正当な後継者だと宣言したのです。この時に造った砦こそが五色塚古墳だという説もありますね。実際に明石海峡を監視するかのような立地にあるため、ここに砦を造ろうとするのも納得がいく話かも知れません。
しかし砦として五色塚古墳が使用されることはありませんでした。実際の戦いは遥か東にある菟道河(現在の京都府宇治川)で行われ、敗れた忍熊皇子は逢坂から近江へ逃げ、そこで自害しました。
五色塚古墳は表向きは「仲哀天皇の陵墓」だったが、実は戦いのための陣地だった。という説があるのも面白いですよね。