- 大坂城の歴史【豊臣時代】
- 秀吉、石山本願寺の跡地に大坂城を築く
- 安土城をはるかに凌ぐ壮大さと華麗さ
- 秀吉の死と大坂城落城
- 大坂城の歴史【徳川時代】
- 豊臣氏の痕跡を消し去り、新たな大坂城を築く
- 徳川幕府の西の拠点となった大坂城
- 幕末動乱期の開城と、その後の大坂城
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- 大坂城は過去と未来を繋ぐ情報発信基地
この記事の目次
大坂城の歴史【豊臣時代】
まずは大坂城の歴史を豊臣氏時代から紐解いていきましょう。その築城は、天下人である豊臣秀吉の権威と栄光を象徴するものでした。戦国時代の終わりに燦然と完成した錦城鉄壁の要塞こそが、すなわち中央集権国家の礎を築いたのです。
秀吉、石山本願寺の跡地に大坂城を築く
織田信長が本能寺で斃れる以前、その場所は最大の宗教勢力だった本願寺の牙城でした。約10年もの間、信長の包囲網を耐え抜き、最後まで落ちることがなかった石山本願寺は、まさに天然の要害ともいうべき立地にあったのです。
1580年、信長と和睦した本願寺は紀州へ去り、その跡地に着目したのが次に天下を取った豊臣秀吉でした。旧織田家重臣の柴田勝家や、徳川家康らと対峙するいっぽうで、次期天下人にふさわしい城を築こうと画策したのです。
石山本願寺跡があった上町台地を中心として、内堀に囲われた壮麗な主郭部、そして最も大きな特徴が大阪の市街地を丸々抱え込んだ【惣構え(そうがまえ)】と呼ばれる外堀が周囲を取り囲んでいたことでした。豊臣氏滅亡の折に徹底的に破壊されたことと、その後の再開発などによって痕跡がわずかに残るに過ぎませんが、その規模はまさに日本一と呼ぶにふさわしいものだったようです。
北東は現在の大阪城公園付近、西は現在の中央区船場あたりを流れる東横堀川、南は現在の玉造本町あたりにまで及んでいたようで、今の大阪城の約4倍もの面積があったとのこと。
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安土城をはるかに凌ぐ壮大さと華麗さ
かつて信長が築城した居城「安土城」も、当時そこを訪れた宣教師らの回顧録からも明らかなように壮麗極まりないものでしたが、秀吉は安土城をはるかに凌ぐ壮大さと華麗さで大坂城を建てようとしました。信長が造ったものより大きく豪華な城を建てることによって、自分こそが跡を継ぐにふさわしい天下人だとアピールしようとしたのですね。
大坂城天守閣を含む壮大な建物群がいかに華麗であったかについては、当時の文献や屏風などに頼って想像を膨らませねばなりません。しかも「大坂の陣図屏風」などは大坂落城後から数年経過して描かれたものであり、絵師らが伝聞をもとに想像で描いたものと断言せざるを得ない部分もありますね。だから「冬の陣図屏風」も「夏の陣図屏風」も同じ天守でも描かれ方が違うのです。
しかし、中には信頼のおける史料もあり、その中でも「中井家本丸図」と「大坂図屏風」に関してはかなり信憑性があるものと断定されています。
「中井家本丸図」は、江戸幕府初期の大工頭を務めた中井家から発見されたもので、縄張りの構図が徳川時代の大坂城とは異なるため専門家が調査したところ、秀吉時代の大坂城であるとの結論に至りました。
また「大坂城図屏風」は、なんと遠く離れたオーストリアのエッゲンベルグ城で発見されれおり、2008年になってようやく豊臣氏大坂城を描いたものだということがわかりました。豊臣天守閣には外へ出るための桟があるが、徳川天守閣には窓しかない。そういった違いだそうです。
そして最も重要な点は、この「中井家本丸図」と「大坂城図屏風」ともに、北面にある付庇(つけびさし)という天守としては極めて特異な点を描いていることが共通しています。そういった意味から、最も信頼性のある史料だということがいえるでしょう。
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秀吉の死と大坂城落城
1598年、秀吉が死去するや豊臣氏の前途に暗雲が立ち込めます。秀吉亡き後の権力争いともいえる関ヶ原合戦で徳川家康が勝利すると共に、豊臣氏はわずか65万石の一大名の地位に転落してしまいました。
ついにとどめを刺されたのが大阪の陣。その頃にはもはや味方してくれる大名は一つもなく、浪人たちを搔き集めて対抗しますが、大坂冬の陣ではなんとか和睦に持ち込んだものの、翌年の夏の陣でついに滅亡。和睦の条件として外堀を失ったことが致命傷となりました。
もちろん豊臣氏大坂城は灰燼に帰し、豊臣氏の栄華も炎の中に消えていきました。
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大坂城の歴史【徳川時代】
豊臣氏が滅亡したあと、大坂城とともに繁栄を誇っていた大坂市街も多くが焼亡し、このまま衰退していくかに見えました。ところが徳川幕府もまた、その好立地に着目していたのです。ここに幕府による大坂城復興プロジェクトが始まりました。