幕末日本の歴史江戸時代

負け組から大逆転「長州藩」の知られざる歴史をわかりやすく解説

人間恨みというものは恐ろしいものです。恨みのおかげでどでかい仕返しを喰らったり、復讐されることもあるのでなるべく怨念を生まないようにしなければいけませんね。 さて今回解説していくのはそんな怨念をもとに幕府に対して反抗していった長州藩。果たして長州藩はどうして倒幕派の最筆頭となったのか?今回はその謎について追っていきましょう。

長州藩が成立するまでのあらすじ

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長州藩といえば幕末では倒幕を真っ先に行った藩として有名ですよね。その通り長州藩は徳川家を幕府が開かれた時から恨んでいたのでした。まずはどうして長州藩が幕府を恨むようになっていったのかを見ていきましょう。

中国地方を制覇した毛利家

長州藩を語る上で欠かせないのがこの藩の藩主を務めていた毛利家の存在です。毛利家とったら一番最初に思いつく人といえばやはり毛利元就。毛利元就は安芸国(広島県)の一領主からトントン拍子で成り上がっていき、最終的には安芸国を中心に10ヶ国を治める大大名となりました。

そして1575年に元就が亡くなると跡を孫の輝元が継ぐことになるのですが、毛利家には毛利両川(吉川元春・小早川隆景)がいたこともあり、信長・秀吉の時代の荒波に耐えながら領土は減らしながらも中国地方の大大名として君臨し、関ヶ原の戦い以前は広島城主113万石を治め、さらには五大老の一人にも数えられるほど政治としてもかなりの重鎮のポストにつくことに成功したのでした。

関ヶ原の戦いによる転落

こうして日本の中でも屈指の石高を維持した毛利家。しかし、この状態は長く続くことはなく、1600年になると毛利家の運命を大きく変えてしまう大合戦。関ヶ原の戦いが勃発してしまったのでした。一般的に関ヶ原の戦いといえば石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍による争いですが、実際はなんと西軍の総大将は石田三成ではなく毛利輝元だったのです。

これには裏側があり、石田三成自身は元々総大将になるほどの石高はなく、宇喜多秀家や上杉景勝などの反家康派の大名達と協力していましたが、毛利家もこの反家康派の大名の一つ。さらに毛利家には安国寺恵瓊と呼ばれる親三成派の軍師がいたため、輝元は渋々西軍の総大将になることを決意。関ヶ原の戦いには実際には戦わないものの、西軍の一員として働くことになりました。

しかし、関ヶ原の戦いの結果は皆さんご存知の通り西軍の敗北によって終結。しかもその敗北の原因が元々毛利家を支える立場であった吉川家と小早川家の当主2人(小早川秀秋・吉川広家)の裏切りが決定打となってしまうというまさしく可哀想としか言えない幕切れで毛利家は負け組の総大将として家康による処罰を受けてしまうことになってしまったのです。

〜広島から長州へ〜毛利家屈辱の減封

さて、こうして関ヶ原の戦いは毛利家率いる西軍の敗北にて終結しましたが、この戦いによって石田三成や毛利家の軍師安国寺恵瓊が打ち首となってしまい、さらにはその処罰の目は大坂城に待機して直接家康とは戦っていない毛利家自身にも及ぶようになっていきます。

毛利家の処遇は改易。領地をすべて没収として毛利家の血筋を断とうと家康は決意しました。

しかし、そんな中で必死になったのが家康に寝返った吉川広家だったのです。実は、毛利家が没収された領地のうち長門・周防2国は広家に与えられることが完全に内定となっていました。

しかし、広家は自身の領地を毛利家の領地として何とかして存続させて欲しいと家康に懇願。その決死の懇願に負けたのか家康は毛利家の領地を広島城112万石から元々広家に与えられる予定だった長門・周防29万石に減封することを条件に毛利家の存続を許すことを認めました。こうして領地は3分の1になったものの、なんとか毛利家の家は存続することが許されたのでした。

しかし、減封は減封。毛利家は家の祖先である大江広元の頃からのゆかりの地安芸国を離れなければいけなくなってしまい、毛利家の家臣たちは復讐の心を持ちながら新たなる本拠地へと向かうことになったのです。

江戸時代の長州藩

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こうして関ヶ原の戦いには敗れたものの、吉川広家の尽力によってなんとか存続は許された毛利家。江戸時代に入るとこの毛利家は長州藩主として新たなスタートを切ることになるのですが、新しい土地に慣れることができなかったのか江戸時代初期の長州藩はトラブルが相次いでいました。次はそんな長州藩の苦難の時代についてみていきましょう。

過酷な検地によるちょっとしたトラブル

関ヶ原の戦いに敗れた後、輝元は隠居することになり、長州藩は毛利秀就を初代藩主としてスタートすることになりました。しかし、秀就はまだまだ幼く、藩の政治は家臣が行うというなんとも不安定な状態でした。そんな中で長州藩が最初に行だだのが新しい土地の検地。でも毛利家は元々112万石を治めていた大大名。やはり石高は多く見積もりたかったのでしょうか。1607年に行った検地では少しでも石高を上げるために過酷なまでの調査を開始。岩国地方ではこの検地に反対した大一揆は起こったものの、なんと石高を29万石から53万石まで伸ばすことに成功したのです。

これによってなんとか元の領地に比べて半分程度となった長州藩の石高。毛利家からすればいいことだと思うのですが、これによって幕府は長州藩に目をつけるようになってしまいます。

毛利家といえば幕府に歯向かったら西軍の総大将。江戸幕府からはあまり良い目で見られていません。しかし、そんな長州藩が53万石という大大名だということがバレてしまっては幕府からさらに減封されることはわかりきったことです。(ちなみに広島藩は49万石なんだとか)

そこで、長州藩は石高を実際よりも7割減の36万石として逆サバ読みを行い幕府に申請。なんとか長州藩を中堅の藩として持続させたのでした。

ちなみにこのように幕府に申請した石高のことを表高と呼び、実際の石高のことを実高と呼びます

本拠地選びのトラブル

さて自藩の石高は確定しましたが、次に決めなければいけないのが本拠地の場所。これまでは広島にいたため長州のことはわからない。そのため一応幕府の恭順を示すのも合わせて幕府に対して本拠地の打診を行いました。幕府としてもこれは願ったり叶ったりなことであり、これを機に長州藩の本拠地を辺鄙なところに飛ばそうと画策したのでした。

そして選ばれたのが長門国の北に位置するでした。萩といえば今でも交通の便がとんでもなくひどいですが、それは江戸時代の時でも同じ。さらに長州藩には山口というかつて西の京とも呼ばれた著名な地があったのにもかかわらずこの萩を選んだということは何か裏で幕府が長州藩を追っぱらおうとしたことが伺えます。

そして長州藩は萩に萩城を築き上げ江戸時代を乗り越えていったのでした。

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