大久保利通は廃藩置県を見届けて西洋視察へ
一方、大久保利通は、島津久光らの薩摩藩の島津氏とは直接は接触せず、寺島や森らに島津久光の説得をおこなわせました。自分は東京にこもって版籍奉還への移行の機会をうかがい、1871年8月にそれが実現させたのです。そして、11月には岩倉具視、木戸孝允らといっしょに西洋視察(岩倉使節団)に旅立っていきました。
日本に残されたのは、東京の西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らでしたが、大久保利通が西洋視察から帰ってくると、征韓論をめぐって留守番の西郷、江藤らと対立します。その結果、岩倉具視と組んだ大久保の意見が通って、西郷らは新政府から下野したのです。そして、当時不満が渦巻いていた薩摩や佐賀などに帰って、最終的には反乱を起こしています。土佐の板垣退助らは、その様子を見て、もはや武力によって大久保の新政府を倒すことは無理と悟り、自由民権運動に突き進むようになったのです。
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版籍奉還と廃藩置県によって中央集権が確立し、本格的に近代化に向かう
明治維新後の新政府は、日本の近代化を図るためには、強力な中央集権政治が不可欠であり、その下に新しい軍隊を持ち、殖産によって日本の近代化をめざしました。富国強兵政策がそれに当たります。
それらの前段階としておこなわれたのが、版籍奉還であり、その2年後におこなわれた廃藩置県だったのです。
日本の近代化への一里塚になった版籍奉還
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もともと明治新政府は、徳川幕府の体制では海外の列強の侵略を止められないということからスタートしていました。尊皇攘夷を旗頭にしていたのですが、攘夷は当時の日本の体制では無理なことがわかり、その体制を壊すために維新をおこなったと言えるのです。
その点から、廃藩置県は不可欠なものであり、それを実現させるためには版籍奉還が必要だったと言えます。すなわち、版籍奉還は日本の近代化への一里塚と言えたのです。