平安時代日本の歴史鎌倉時代

栄西が開いた「臨済宗」を元予備校講師がわかりやすく解説

平安時代から鎌倉時代にかけて、日本仏教界に革新運動が興っていました。法然や親鸞は南無阿弥陀仏と唱えると極楽往生を遂げるという浄土宗・浄土真宗を開宗。日蓮は法華経こそ最高の真理として他宗を非難しました。この激動の時代に現れた明菴栄西(みょうあんえいさい・ようさい)は中国の南宋に留学し、日本で臨済宗(りんざいしゅう)を開きました。今回は臨済宗を開いた栄西や臨済宗を含む禅宗の内容、室町時代に発展した禅宗寺院などについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

臨済宗の開祖、栄西

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日本に座禅をする宗派である禅宗が持ち込まれたのは12世紀後半です。持ち込んだのは比叡山で修業した明菴栄西(以下、栄西)でした。栄西は2度にわたって南宋に入り、中国で最先端の仏教を学びます。帰国後、栄西は既存宗教と共存しつつ、臨済禅の普及をはかりました。1198年には「興禅護国論」を1211年には「喫茶養生記」を著して禅や茶についてまとめます。

栄西の生い立ち

栄西は1141年4月20日、岡山県にある吉備津神社の神官の子として生まれました。吉備津神社は桃太郎伝説や桃太郎に対峙された鬼の首がまつられていることでも知られています。幼いころから学問に秀でていたようで、8歳のときに「倶舎論」や「婆娑論」をよみました。

栄西は11歳で備中国の安養寺で静心に師事します。1153年、栄西は13歳で比叡山延暦寺に登り、翌年に正式に得度。その後も比叡山や安養寺、伯耆の大山寺などで天台教学や密教などを学びました。栄西が10代から仏教についてかなり深く学んでいたことがわかります。

このころ、比叡山は僧兵という武装した僧侶を擁して朝廷に自分たちの要求をのませていました。しかも、多くの荘園を抱えることで大きな利権をもっていて、仏教よりも世俗のことに関心をもつ僧侶も数多くいたことでしょう。栄西は天台宗の在り方を見て、より本格的な仏教研究をするには、本場の中国に行くしかないと考えたのかもしれません。

日宋貿易と中国留学

12世紀後半といえば、平清盛が政権を握った時代でした。清盛をはじめとする平家一門は瀬戸内海の交易によって財を成します。瀬戸内海には日本国内の船だけではなく、中国南部にあった南宋の船も入ってきており、交易が盛んにおこなわれました。平氏政権の時代は日宋貿易が盛んな時代だったのです。

1168年、堕落し形骸化した天台宗を立て直すため、栄西は南宋にわたりました。この時、栄西は天台宗の勉強を中心に行いましたが、禅宗にも触れていたかもしれません。

留学から帰国した栄西は、まだまだ中国には勉強するべきものがたくさんあると考えました。そこで、1187年にふたたび南宋にわたり修業します。栄西が臨済宗の嗣法の印可を受けたのはこの時でした。

「興禅護国論」

2度の南宋留学を経て、栄西は臨済宗を起こしました。栄西は九州北部の聖福寺や誓願寺、龍護山千光寺などで臨済禅を布教します。これによって、九州では臨済禅の信者が増えました。

この事態に危機感を持った筑前国(福岡県)の良弁という僧が延暦寺に対し、栄西の布教を止めさせるよう願い出ました。これを受け、古くからの仏教勢力である比叡山延暦寺や興福寺(南都北嶺)は栄西に対し激しい攻撃を加えます

栄西は「興禅護国論」を著して禅宗が南都北嶺に敵対するものではないことを訴えました。栄西は善の教えが、最澄の開いた天台宗の教えに背くものではないとして、誤解を解こうとしたのでしょう。その上で、栄西は朝廷に対して禅の布教を許可してくれるよう訴えたのです。

栄西の鎌倉下向

「興禅護国論」に見られるように、栄西は他宗をいたずらに批判することなく、他宗との共存をはかりました。しかし、比叡山延暦寺や興福寺などの旧仏教勢力の理解を得ることは困難です。京都での布教に限界を感じた栄西は、新たに勃興した鎌倉幕府の保護を受けることを期待し、鎌倉に下りました

1200年、栄西は頼朝の一周忌法要で導師をつとめるなど、幕府からの信頼を得ます。このころ、栄西は頼朝夫人だった北条政子が建てた寿福寺の住職として招かれるなど、ますます幕府との関係を強めました

1202年、2代将軍頼家が京都に建仁寺を建立するなど、栄西と幕府の結びつきは強まります。1215年、栄西は京都の建仁寺で亡くなりました。享年75。争いを避けつつ、日本仏教界に新風を吹き込んだ名僧でした。

臨済宗はどんな教え

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臨済宗のルーツをさかのぼると、菩提達磨こと達磨大師に行きつきます。中国で発達した禅宗は栄西や道元によって日本に持ち込まれ、日本独自の禅宗として発達しました。中でも、栄西の臨済宗と道元の曹洞宗が日本では特に有名です。臨済宗と曹洞宗の違いや臨済宗の葬儀などについてまとめてみましょう。

禅宗と達磨大師

仏教の開祖である釈迦(釈迦牟尼仏)は死の前に自らの教えを弟子たちに伝えました。弟子の内、摩訶迦葉(まかかしょう)には「不立文字」の教えを授けます。

不立文字とは、経典の言葉を離れ、ひたすら座禅をすることで釈迦の悟りにたどり着くことを意味する言葉。不立文字を重視する禅宗には中心経典がありません。教えは師匠から弟子に直接伝授されました。

禅宗を中国で発達させたのが「だるまさん」のもととなった菩提達磨。インドからやってきた菩提達磨は中国南朝の梁で布教を図りますが、皇帝の意に沿わなかったため、自分の考えは受け入れられないと考え梁を去ります。

達磨大師は中国北部にわたり、嵩山少林寺で9年にわたって壁に向かって座禅しました。その後、達磨大師に弟子入りした中国人僧の慧可が中国に禅宗を広めます。

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