幕末日本の歴史江戸時代

800年以上にわたり南九州で力を持った「薩摩藩」島津氏の歴史をわかりやすく解説

明治維新をけん引した維新三傑。そのうちの二人は現在の鹿児島県にあった薩摩藩の出身でした。薩摩藩島津家は関ケ原の戦いで西軍に与しながら、所領の没収を免れます。江戸時代に77万石を領有する外様の大藩として強い力を持ちました。今回は薩摩藩の成り立ちや仕組み、幕末の動向などについてわかりやすく解説します。

薩摩藩の成立

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薩摩藩の藩主である島津家は鎌倉時代から南九州に勢力を持つ名族です。源頼朝が島津家の祖先である島津忠久を薩摩・大隅・日向の3国の守護に任じたのが南九州支配のきっかけとなりました。鎌倉・室町と時代を経る中、多くの名門武士が没落する中、島津氏は戦国大名となって江戸時代まで生き延びます。江戸時代以前の島津家についてみてみましょう。

島津氏による九州南部の支配

鎌倉幕府を開いた源頼朝は島津忠久を薩摩・大隅・日向3国の守護に任命しました。忠久の子である島津忠時は承久の乱で幕府方の武将として活躍。若狭など6カ国の守護を追加され鎌倉時代屈指の御家人となります。

室町時代に入ると一度は失った薩摩・大隅の守護職を回復。足利尊氏に味方して北朝側の武士として戦いました。室町時代中期になると島津氏内部での争いが激化。次第に弱体化していきました。

島津氏内部での争いに終止符を打ち、薩摩国を統一したのが島津貴久です。貴久は隣国の大隅にも攻め込み、島津氏の勢力を拡大しました。こうして、島津氏は栄えたり衰えたりを繰り返しながら南九州で勢力を維持し続けます。

戦国大名としての島津氏

貴久が築いた土台を強固なものとし、島津氏を戦国大名として成長させたのが島津義久をはじめとする島津四兄弟でした。義久ら四兄弟は貴久が果たせなかった薩摩・大隅・日向の統一を目指します。

義久は鹿児島にいて主に政務を担当。他の兄弟も義久を支え各地で戦います。特に次男の義弘はのちに鬼島津と称される猛将。1572年の木崎原の戦いでは3000人の伊東軍を300余の手勢で打ち破るなど武勇の面で貢献しました。

南九州を統一した島津氏は九州北部に進出。1578年の耳川の戦いでは九州北部の有力大名、大友宗麟の軍を撃破します。また、1584年には佐賀方面で力をつけていた龍造寺隆信と沖田畷で戦い、これに勝利しました。こうして、九州北部の有力大名を打ち破った島津氏は義久の代に最大の領土を獲得したのです。

豊臣政権下の島津氏

万事順調に思えた島津氏の勢力拡大は天下人豊臣秀吉によって阻まれました。耳川の戦いで敗れて後、弱体化した大友氏が秀吉に援軍を請うたからです。大友氏は島津氏が秀吉の出した総無事令(戦争を禁じる命令)に従わず大友領に攻め込んでくると訴えました。

1587年、秀吉は豊臣秀長や毛利・小早川・宇喜多ら総勢10万の軍を急襲に差し向けました。続いて、秀吉本隊も10万の兵を率いて九州に上陸。圧倒的な兵力で島津氏に服属を迫ったのです。

当初、島津軍は戸次川の戦いで秀吉軍を打ち破ります。しかし、圧倒的物量を誇る秀吉軍の前に島津軍は後退を重ねました。圧倒的兵力差を前に島津義久は秀吉の九州征伐軍に降伏。薩摩・大隅の2国と日向国の一部を安堵されました。その後、島津氏は秀吉の朝鮮出兵に従い兵を出します。そこでの島津義弘の活躍は凄まじいもので鬼島津の異名をとりました。

関ヶ原の戦い

1598年、天下人豊臣秀吉が伏見城で没するとにわかに世間が騒がしくなります。この状況で最も強い力を持ったのが五大老筆頭の徳川家康です。家康は反三成派の取り込みに成功すると従わない上杉景勝の討伐のため会津へと兵を進めました。

島津義弘は1000余の兵を率いて伏見城の徳川方に味方しようとしますが、入城を断られます。やむなく義弘は西軍に味方しました。関ヶ原の戦いでは戦闘の最終局面で徳川家康の本陣に突入する中央突破を敢行して薩摩に帰り着いています。

島津義久は薩摩の国境を固めつつ家康と和平交渉を行いました。家康は九州の諸大名に出兵を命じますが攻撃命令を下せません。もし、戦いになって長期戦になれば家康の戦後処理が滞る可能性があったからです。結局、家康は義久に根負けし、所領の安堵を認めざるを得ませんでした。

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