日本の歴史昭和

戦後最大級の疑獄事件「ロッキード事件」をわかりやすく解説

1976年、日本の政界に大きな衝撃が走りました。アメリカの上院外交委員会の公聴会でロッキード社による日本への航空機売り込みの内容が暴露されたからです。しかも、ロッキード社が「賄賂」を贈った政治家として、元首相の田中角栄や二人の国会議員の名があげられました。日本政界に衝撃を与えたロッキード事件について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ロッキード事件の背景

Lockheed TriStar (All Nippon Airways) 14.jpg
Communi core by S.Fujioka – I scan the photograph which I photographed with MINOLTA single-lens reflex camera with a copier, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

航空機の受注は、その金額が巨大なため多くの人の利害を左右する重要なことでした。アメリカの大手航空機メーカーのロッキード社は航空機のジェット化の波に乗り遅れ、苦戦を強いられます。起死回生を狙ってロッキード社が投入した最新機種「トライスター」はマクドネル・ダグラス社やボーイング社との受注競争に勝てず、状況は厳しさを増していました。また、日本の政界では高い支持率を誇った田中角栄内閣が「田中金脈問題」で総辞職に追い込まれ、三木内閣が成立します。

ロッキード社とは

ロッキード社は1912年に創業したアメリカの航空機メーカーです。世界恐慌で景気が悪化した時、ロッキード社は一度破産しています。しかし、有力な投資家がすぐに買収したため、ロッキード社は破綻を免れることができました。

第一次世界大戦がはじまると、ロッキード社は軍用機メーカーとして大躍進を遂げます。ロッキード社製の代表的な軍用機はP-38ライトニング。ライトニングはヨーロッパ戦線でも太平洋戦線でも活躍し、ロッキード社の名を高めました。

第二次世界大戦後、コンステレーションという旅客機を開発し、マグドネル=ダグラス社と熾烈な競争を展開しました。

しかし、1970年代からロッキード社の業績は低迷し始めます。理由は、ジェット機への対応が遅れたからでした。

トライスターの販売不振

ロッキード社が起死回生を図って投入した最新旅客機がトライスターでした。ロッキード社の航空機には星や星座に関連したものが多いのですが、トライスターの名はオリオン座にある「三ツ星」に由来します。エンジンが3つあることからつけられた名でした。

トライスターは、先進的でわかりやすいコックピットのスイッチ群配置や、背の高い客室、客室や貨物室に設置されたエレベーター、自動操縦装置など、ロッキード社がこれまで培ってきた技術の結晶ともいえる機種です。

ロッキード社はトライスターの先進的な技術を看板として、世界各国に売り込みをかけました。ところが、エンジンの開発が予想以上に遅れ、販売開始が遅くなってしまいます。今まで、ジェット機でほとんど実績がなかったことも響き、トライスターは販売不振に陥りました。

ベトナム戦争の終結

ロッキード社をさらなる苦境に追い込んだのは、ベトナム戦争の終結でした。1965年に始まったベトナム戦争では、多くの軍用機が戦場に投入されます。軍用機メーカーとして実績を積んでいたロッキード社の機体は、ベトナム戦争でも活躍しました。

ベトナム戦争は、アメリカが大軍を投入したにもかかわらず、早期に決着をつけることができません。ベトナム戦争の長期化は、アメリカ経済に深刻な打撃を与えました。

1969年に大統領となったニクソンは、ベトナム戦争の早期終結を狙います。しかし、ベトナム側の抵抗は激しく、「テト攻勢」では、南ベトナムのアメリカ大使館すら一時占領されてしまいました。

アメリカ国内で反戦運動が激しくなったこともあり、ニクソン大統領はベトナム戦争終結を急ぎます。

1973年、アメリカと南ベトナム政府、北ベトナム政府、南ベトナム解放戦線(ベトコン)がベトナム和平協定を結び、アメリカはベトナムから撤退しました。これは、軍用機の需要が激減することも意味していました。軍用機に頼っていたロッキード社は、民間機で利益を上げるしかなくなります

田中内閣を総辞職に追い込んだ「田中金脈問題」

ロッキード事件の2年前、雑誌『文藝春秋』11月号で田中角栄首相についての特集が組まれました。作家の立花隆は「田中角栄研究―その金脈と人脈」と題する記事で、田中のファミリー企業が信濃川河川敷の土地を取得直後に建設省に転売し莫大な利益を上げてきたことを突き止めます。

また、同じく『文藝春秋』に児玉隆也の「淋しき越山会の女王」という記事が掲載されました。これは、田中と田中の秘書である佐藤昭子の関係や佐藤昭子の影響力などについて書かれたものです。

記事を受けて開催された外国人記者との会見で、田中は金脈問題について徹底的に質問されてしまいました。その後、田中は、政権維持は困難であると考え1974年11月26日に内閣総辞職します。

田中の総辞職を受け、自民党内では後継総理の調整が図られました。結局、時の副総裁だった椎名悦三郎が次期総裁に三木武夫を指名(椎名裁定)したことで、三木が次の総理大臣となります。

ロッキード事件の経緯

image by PIXTA / 60939272

1976年2月、アメリカの上院外交委員会の公聴会で、ロッキード社がトライスター売り込みのために巨額の賄賂を各国に対して行っていたことが発覚。日本に対しても30億円という巨額の資金が投じられていたことがわかりました。三木首相はロッキード事件の徹底調査を約束します。しかし、自民党内では三木首相のやり方に対する反発が強まりました。その後、次々と現れるロッキード社の工作。関係者たちの謎の死など、様々な出来事が発生しました。ロッキード事件の経緯についてまとめます。

次のページを読む
1 2 3
Share: