金持ちを狙え!江戸や大坂で頻発した「打ちこわし」とは
打ちこわし(打毀)とは文字通り、何かを叩き壊して破壊すること。ターゲットは金持ちや金貸しといった富裕層の家屋敷です。江戸時代の民衆運動のひとつとして、江戸や大坂など大都市でたびたび発生していた打ちこわし。いったい何が原因なのでしょうか。同様に、江戸時代によく発生していた百姓一揆との違いも併せて詳しく見ていきましょう。
「打ちこわし」の原因は?時代背景は?
江戸幕府が開かれ、徳川家康によって築かれた江戸の町。
江戸城をはじめ、他に類を見ない巨大な町づくりのため、全国各地から大勢の人が移住。大都市・江戸の人口は年々膨れ上がる一方でした。
これだけの人口を支えるには食料が必要です。
江戸には全国から年貢米が集まってくるため、豊作の年は米蔵にたっぷり米がありますが、天候不良や災害などで不作の年は一気に食糧難に陥る可能性大。実際、異常気象や天変地異が続くことがあり、米が収穫できないことが何度もあったのです。
江戸時代、経済の中心はお米でした。
米が不作だと米の値段が上がり、米の値段が上がると他の食料も含め物価が上昇。庶民の暮らしはどんどん苦しくなり、食べるものにも困るようになってしまいます。
また、一部の富裕層が米の買い占めを行うこともありました。ただでさえ米不足だというのに買い占めなどされたら、余計に米の値段が高騰してしまいます。
もう我慢できない!貧窮した庶民たちは一致団結。行動を起こします。
買い占めをして私腹を肥やしている商人たちの家や米蔵を強襲。これが「打ちこわし」の全容です
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「暴動」というより「都市部の民衆運動」
東京国立博物館所蔵の『幕末江戸市中騒動図』という絵に、打ちこわしの様子が描かれています。
建物の屋根に上がって長い棒を振り回し、屋根を破壊する男。箱に入った反物のようなものを箱ごと地面にばらまく男。米俵を放り投げて米をぶちまける男……。米の高騰に激怒し、怒りを露にする男たちの様子が克明に描かれており、これを見ると、打ちこわしがどのように行われたのか、様子がよくわかります。
「打ちこわし」という言葉のインパクトから、激怒した庶民たちによる暴動だと思われがちですが、庶民たちはやみくもに暴れまわっていたわけではないようです。
誰彼構わず襲うわけではなく、あくまでも、金儲けに走り庶民の暮らしに目もくれない富商の家が中心。飢饉(ききん)の時に食料を提供してくれた商人の家は襲わなかったようです。
「打ちこわし」を行う際は、襲う家をきちんと把握し、チームを組んで計画的に行動していたと言われています。
江戸のような人口の多い大都市で起きる庶民の暴動は、幕府や役人にとってもダメージが大きい。商人たちにとっても脅威でした。
また、江戸時代の人々の生活に根付いた「隣近所困ったときは助け合う」という相互扶助の考え方も、庶民を「打ちこわし」に駆り立てた要因とみてよいかもしれません。
富を持つものは私利私欲を控え、飢饉などのときは率先して食べ物を配るなどして弱者を救うべきである、という考え方。江戸時代の日本において、米を買い占める商人たちは糾弾されるべき存在だったのです。
「打ちこわし」を受けた商人は、何かしら不道徳なことをしている可能性が高い、と、後々世間から白い目で見られることもありました。家や蔵を壊された上に面目丸つぶれ。「打ちこわし」は欲深い商人たちに社会的制裁を加える手段でもあったようです。
どう違う?「百姓一揆」と「打ちこわし」
「打ちこわし」は都市部で行われる民衆運動です。
主人公は江戸や大坂など大都市の貧しい人々。飢饉などで米の値段が高騰した際、米の買い占めをしたり私欲に走る商人たちを強襲しました。
米不足で食べるものもなく、不満を爆発させて起こした暴動はありますが、ターゲットはあくまでも悪徳商人たち。目的は略奪や暴力ではなく、あくまでも米価を下げることにあったと思われます。
暴動を起こす集団の統率は取られており、その結果、商人たちに制裁を加えることもできていたようです。
江戸時代を通じて4~500回は起きていたのでは、と言われている「打ちこわし」。江戸時代中期頃からたびたび起きるようになり、江戸末期には物価の高騰とともにかなり頻繁に発生するようになりました。
では「百姓一揆」とは何なのでしょうか。
「百姓一揆」を起こすのは農民です。
場所は農民たちのホームグラウンドである農村地域。やはり凶作や飢饉が根本的な原因です。
米が不作だというのに年貢の取り立てが厳しい時や、自分たちが食うに困って苦しんでいるというのに不正を働いたり私腹を肥やしている領主や村役人たちがターゲット。
農民たちが一致団結し、役人の家を強襲。不正役人を辞めさせ、年貢を減らすよう直訴することが目的です。
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江戸中を巻き込む大騒動「天明の打ちこわし」とは
江戸時代を通じて、凶作や飢饉は何度もありましたが、中でも特にひどかったのが享保、天明、天保の3度の大飢饉でした。その中でも最も大きな飢饉が天明の大飢饉です。この時も例外なく米価が高騰し、庶民は窮地に立たされます。江戸の町では打ちこわしが頻発。世にいう「天明の打ちこわし」。江戸の町全体を巻き込んだ未曾有の大惨事について詳しく解説します。
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怒る庶民たち!「天明の打ちこわし」の時代背景
1782年(天明2年)から1788年(天明8年)まで続いた大飢饉。東北地方の米どころなどで雨の降らない日が何十日も続いたり、気温が上がらず作物が育たなかったり、日本全国の農村で何年も不作が続き、危機的状況に陥っていました。
天候不良に続いて、天明3年(1783年)に浅間山が噴火。噴煙は関東や信州一帯を覆い、農作物に甚大は被害を与えました。
この頃、幕政を取り仕切っていたのが、老中・田沼意次です。
田沼意次は幕府の財政立て直しのため様々な政策を打ち立てますが、結果的に貧富の差が激しくなってしまい、物価は返って上昇。町人と癒着して不正を働く役人を増やすことになってしまいます。
長引く飢饉と米価格の高騰、天候不良、自然災害、そして後手後手裏目逆効果続きの幕府の政策。商人たちは役人に賄賂を送って米の買い占めに走る始末。もう我慢の限界だ!庶民たちは立ち上がります。
天明の大飢饉が始まった頃から、打ちこわしや百姓一揆は頻発していましたが、天明7年(1787年)の5月になんと32件。江戸と大坂でほぼ同時期に集中して発生しています。
1か月間に発生した打ちこわしの数としては江戸時代最多。いずれも大変激しく規模の大きいものばかりでした。天明7年というと、老中・田沼時代の末期。打ちこわしの数は田沼政権への不満の表れとの見方もあるようです。
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