大名の支配する藩はひとつの国とも言えた
江戸時代の大名制度は、徳川将軍から自分の領土に対して本領安堵(領土の所有権を認めてもらう)を受けることで成立していました。それによって、各藩は地方の独立国として武士という軍事組織や年貢の徴収権限を持っていたのです。代替わりの際にはいったん領土を将軍に返還して改めて大名後継者に本領安堵をしてもらっていました。
それに対して、明治新政府は、どうするのかをハッキリさせず、版籍奉還を申し立てれば、再び藩の支配権が与えられる程度のことしか言いません。しかし、維新後の有力藩である薩長土の藩主たちが版籍奉還をしたことで、各大名は藩の支配は今まで通りに戻ってくると思い込んでこぞって版籍奉還に応じたのです。
しかし、薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)の藩主も実際には詳しい今後のことは聞いていませんでした。その証拠に、薩摩の国父と言われた島津久光は2年後に廃藩置県がおこなわれたことに対して大変怒ったと言われており、薩摩に帰った西郷隆盛を生涯許さなかったと言われているのです。
こちらの記事もおすすめ
幕末を動かした主役たち【幕末における4つの藩(薩長土肥)】 – Rinto~凛と~
藩制度が残る限り日本の近代化はなかった
image by iStockphoto
しかし、西欧の列強が植民地化を狙って東アジアにも進出してきている中で、その餌食にならないことが一番の課題でした。そのためには、地方に分権した支配体制ではなく、強力な中央政府を作り、その中央集権によって強い国に生まれ変わらせることが大きな課題だったのです。
そのためには、各藩がそれぞれに軍隊を持ったり、徴税する体制では強力な中央政府を作ったりすることは不可能でした。そのため、明治新政府では、早くから廃藩置県をして、政府のみが軍隊を持ち、税制も全国共通の制度に改める必要性が論じられていたのです。地方には知事を中央政府が任命して、政府の統治下で政治がおこなわれる必要がありました。
大名たちをだました木戸孝允_知藩事と華族任命の裏
そのため、明治新政府の木戸孝允や寺島宗則などは、強力な中央政府を作る第一歩として、版籍奉還を自分たちの藩主に説得をおこなったのです。
ただし、藩の支配権が奪われれば、さすがに藩主たちも版籍奉還をするわけがありません。そこで、将来や実際の知藩事の立場などについては曖昧にしたまま、取り敢えず版籍奉還をすれば、藩の支配権は手元に残ることだけ説明して版籍奉還に応じさせたのです。同時に、大名たちは、公家とともに特権階級として華族に任じられたことで明治新政府の本当の狙いや目的には気がつきませんでした。
大名たちは自分たちの地位が変わるとは思わなかった
薩長土肥の藩主をはじめとしてすべての大名たちは、版籍奉還をすることで、新たに本領安堵されて藩の支配権が戻ってくると信じていたのです。早く言えば、大名の名称が知藩事に代わる程度にしか考えていませんでした。
そのために、知藩事の業務が実際には明治新政府の決定に従っておこなわれなければならないことが明らかになるにしたがい、知藩事としての旧大名たちは驚いてしまったのです。
しかし、江戸時代末期の各藩の多くは、藩の財政が困窮しており、藩の支配権を本当に維持したいとは思っていないケースも見られました。
版籍奉還の結果はどうなった
版籍奉還がおこなわれた結果、各藩にはどのようなことが起こったのでしょうか。
各藩では、すでに財政が厳しかったところも多く、明治新政府からの政府に対する税の支払いは厳しくなっており、藩の維持経費を削らざるを得なくなっていました。そのために各藩ではさまざまな反発が生じてきたのです。